第一回 「戦後の野球 憧れ〜夢〜願望が実現」 [06.9月号掲載]
私が生まれた年<1939>に、第二次世界大戦が始まった。その2年後には太平洋戦争が勃発。小学校に入学したのは終戦の明くる年<1946>のことだった。戦後の大荒れの世の中、野球どころではなかったはずなのに、何故か私は“野球少年”の道をたどっていた。兄貴が野球に携わっていたことで興味を持ちだしたと思われるが、九歳も年齢差があると私自身、果たして何歳くらいからその気になっていたのか、今ひとつわからない。気が付いたら小学校の野球部に入部していたのだ。
部活を始めたのは四年生。プロ野球選手に憧れの気持を持ちだした。そして中学生になると憧れが大きな夢へと変化していった。川上の赤バット、大下(故人)の青バット。藤村(故人)の物干し竿。まだテレビはない時代だったが、ラジオ、新聞などでスタープレイヤーの名前は聞こえてきた。巨人ファンだった私には、同チームの投手・藤本英雄(故人)、別所毅彦(故人)の活躍に大いに注目した。そういえば、ブロマイドをたくさん集めていたことを覚えている。
天皇陛下の戦争終結の詔勅が放送されてまだ十年も経っていない。暗いニュースが多い中、1949年の湯川秀樹博士(故人)のノーベル物理学賞受賞。1952年、ボクシングのフライ級世界チャンピオンに輝いた白井義男(故人)・・・。やっと明るいニュースが流れ出し、日本人に勇気を与えてくれる、そんな時代だった。プロ野球界はといえば、二リーグ分裂などで揺れていたが、私は野球を益々好きになっていった。
野球の強い学校へ進みたくて、中学校(葵中学)に越境入学した。出合った監督が山内一良先生。二年ほど前に、数十年ぶりでお会いしたが、八十歳になられるのにお元気そのもの。本格的に野球に取り組んだ時の指導者のひと言は“初心を忘れるな”だった。当時の私にとっては非常に重みのある言葉だった。

葵中学校(岡崎市)時代の野球部
小学校の恩師の言葉は“一芸に秀よ”、高校では“自分に妥協するな”だった。その高校時代、私のプロ野球選手への夢が願望へと変わってきた。幸い、野球を志す男としては、愛知県ではもっともふさわしい名門校、中京商業(現中京大中京高)に入学できた。しかし、希望校に入ったものの、待ち受けていたのは試練だった。さすが名門校。部員は我々一年生だけで何と161名。その中には中学の愛知県大会で優勝した投手や準優勝投手がいた。同大会では一回戦で敗退していた私。その差は大きい。

中京商時代、前列中央が筆者
その後、世の中に“神武景気”がやってきた。日本の国連加盟が可決され、ソ連が世界初の人工衛星、スプートニク1号の打ち上げに成功した。日本には国際化の兆しが見えはじめ、世界の動きも前へ進みはじめていた。私の野球も、少しずつだが進歩していった。周りの事情など知る由もなく投げ続けた。“一芸に秀よ”、“初心を忘れるな”、“自分に妥協するな”の言葉を肝に銘じ、連日三百球から四百球のピッチング練習。同期の優勝投手、準優勝投手に負けるわけにはいかないし、当時はこの投球数が多いとか思ったことはなかった。甲子園を目指して、ただひたすら投げ続けた。
そして当時のプロ野球界に目を向けてみると、1957年、後楽園球場で行われたセ・リーグの開幕戦、巨人−国鉄戦で、日本の総理大臣として岸信介首相(故人)が初めてプロ野球の始球式を行っていた。
私の甲子園への思いは、二年生の時に実現することになった。春の選抜大会では、登板機会はなかったが、ユニホームを着て優勝を経験した。夏の選手権大会の愛知県大会では、三年生のエースが腰痛のため、自分が投げて甲子園に出場を決めた。甲子園大会の夢はかなったが、同球場のマウンドで一番の思い出は、その年に行われた兵庫国体。硬式の高校野球は甲子園球場で行われ、天覧試合を経験させていただいたし、決勝戦にも先発、完投で優勝を飾ることができた。プロ野球のスカウトから声がかかるようになったのは、このあとからだった。
高校最後の年は残念ながら甲子園出場はならなかったが、プロ野球選手への願望は現実のものとなった。当時憧れというか、目標にしていたのは中日の杉下茂投手。あのピッチングフォームが好きで、よく真似をしたりしたものだった。また、世間のプロ野球への関心は高まりつつあったが、まだまだ物資は不足していたし、野球事情は決して恵まれたものではなかった。娯楽としてのプロ野球の存在とて、阪神の観客動員数は年間百万人にも届いていない時代。後に、私はその阪神タイガースと契約を交わしたのだが、その頃、我々には関係のないところで監督問題がくすぶっていたとか・・・。
|