第二回 「プロ野球一年生 右も左もわからず・・・」 [06.10月号掲載]
前回の最後にチラッと触れた監督問題から・・・。と思ってペンをとったが、私が阪神タイガースへ入団した1958年のトップニュースは、何といっても『ミッチーブーム』だろう。この話題を後回しにはできない。11月27日である。現天皇陛下が皇太子時代、現皇后陛下である当時の正田美智子さんとの婚約を発表されたこと。史上初の民間人からの皇室入りは、日本中の国民が祝福した。ミッチーブームの由来は美智子さんの清楚で、気品があり、お淑やかな雰囲気から誕生したもので、大きな話題の提供は、翌年行われた4月10日の結婚パレードで、沿道を埋め尽くした人の数もさることながら、テレビの視聴者は何と『1500万人』に達したとか―。
皇室も徐々にではあるが、プロ野球に関心を持ち出したのか、1959年6月25日、後楽園球場で行われた巨人―阪神戦が、史上初の天覧試合となった。アメリカから渡ってきたスポーツ。なかなか馴染めない面があったに違いないが、プロ野球人気は日本国民の気持ちをつかみかけていた。天皇、皇后両陛下がお揃いで観戦にこられた試合は、九回に長嶋さんの劇的なサヨナラホームランで決着がつく好ゲームだったが、悔しい一発を浴びた故・村山実さんは、「あれはファウルだ」と数十年言い続けたまま他界された。負けず嫌いの性格だ。おそらく、いまなお天国で「ファウル」を主張されていることだろう。また皇太子、同妃両殿下(現天皇、皇后両陛下)も翌年プロ野球を観戦されている。
話題がとんでもない方へ飛んでいってしまったが、私もこれでやっとタイガースへ入団できる。子供の頃からファンだった巨人か―。かなり迷いはあったが、決め手はやはり甲子園球場の魅力だった。高校球児にとっては野球の聖地といえる甲子園に勝るものはなかった。本題に戻ったところで例の監督問題に触れてみる。私が入団すると、新監督に、かつての名捕手・カイザー・田中こと田中義雄(故人、ハワイ出身)が就任していた。当時は、いきさつなどわかりっこないし、他人の事など考えている余裕はなかった。後日、少し前から『藤村排斥運動』があった事を耳にしたが、フロント生活21年、うち広報担当11年の経験をしてきた今、即頭をよぎったのは、マスコミ攻勢の物凄さ。つい想像してしまった。
スポーツ紙にとって、プロ野球の監督人事は大ニュースだ。各紙抜かれたら大変。電鉄本社と球団事務所がトラ番記者でごったがえしていた様子が手にとるようにわかる。当時の球団事務所は本社ビルにあっただけに、なおさらだ。ましてや『ミスタータイガース』といわれた大人物が絡んでいる。半端ではなかったはずだ。―つい知ったかぶりをしてしまい失礼しました。しかし当時私は、そんな事を知るよしもなく、大きな夢を抱いて野球に取り組んでいた。
前監督の故・藤村富美男さんはというと、現役に復帰されていた。藤村さんとは、前の年の終盤、名古屋遠征にこられた時に一度お会いしているのだが、高校を出て右も左もわからない世界に飛び込んだ私。この年、シーズン直前に行われた激励会で肝を冷やした経験がある。3月の終わり頃だった。神戸の中華料理店で、野田誠三オーナー(故人)はじめ、電鉄役員に球団職員とユニホーム組が揃っての会食。囲んだテーブルが何故か、現役に復帰された藤村さんと同じ席ではないか。まあ、緊張すること。きちっと挨拶はしたものの、我々若僧から声をかけるなんて、だいそれたことなどできっこない。雲上の人を前に、ただ黙々と食べるだけ。
「お前ら、若いんだからたくさん食べろよ」―やっと声をかけていただき、やや気持ちがほぐれたところで大失態をやらかした。恐る恐るだが、勇気を振り絞ってビールを勧めてみた。怖い顔でジロッと睨まれた。返ってきた言葉は「オレは飲まん」だった。もうビックリもいいところ。あの顔ですよ。まるで『虎』そのもの。一升ぐらいは平気で飲みそうな雰囲気なのに信じられなかった。後に先輩達に聞いてみると、「藤村さんは飲まない人ではなく、飲めない人」と聞かされて二度ビックリ。冷や汗をかいた記憶があるが、その年を最後に現役を引退された。翌年の引退試合に投げさせていただいたが、私は長嶋さんに一発を浴びた。
とんでもない事をしでかした入団一年目。自主トレは1月の10日過ぎから始まった。ポストシーズンなど無かった時代。初日からユニホームを着てのトレーニング。憧れだった。夢だった。願望となったプロ野球のユニホーム。身に付けた瞬間の胸の高鳴り。何と言ったらいいのか、言葉では説明できない。プロ野球選手になった実感をかみしめながらグラウンドへ。何と、そこは野球の聖地『甲子園球場』だったのだ。感動に酔いしれたままの第一歩。そこはプロ。待っていたのは、『殺人体操』だった。
甲子園浜でトレーニング
松葉徳三トレーニングコーチのもと、軽いジョギングから始まって体操へと移っていく。それほど厳しいものではない。初体験の我々には「たいしたことはない」ように思えたが、時間が経つにつれ、それはキツーイことこのうえない。トレーナーの顔がだんだん鬼に見えてくる。鼻の下のチョビ髭が憎らしい。体操の内容といえば、いつも、どこでも、だれもがやっているありきたりのものだが、不思議なもので、ひとつの同じ体操を3分〜4分〜5分と休みなく、続けてやると、平凡なものでも腕は上がらなくなる。足は震えてくる。顔は引きつってくる。時間はたっぷりかけるし、種類の多い事。やっと体操が終わってグッタリしていると、しばらくしてウサギ跳び、カメ歩き。仕上げは何とアルプス登り。1段跳び、2段跳び。そして、選手をおんぶして登る。もう動けない。練習前、小山(正明)さんら諸先輩達が「お手柔らかに」と松葉さんに挨拶していた理由がよくわかった。翌日、もう足はパンパン。階段の上り下りはもちろん、当時のトイレは和式。しゃがんだり、立ったりが大変。どこかもたれないと立ったり座ったりができない。まさに殺人体操だが、えらいもので、一週間ほどして痛みがとれると何故か、体が強くなったような気がしたものだ。

当時の練習風景
キャンプは甲子園球場で行われた。物資は徐々にだが豊富になってきた。終戦から10年以上が経った。戦争の痛みは消えかけだした。景気は上向き。1958年には1万円札が発行された。東京タワーが完成。当時の高さ333メートルは世界一。翌年には岩戸景気がやってきた。戦争で打ちのめされた国の回復は急ピッチ。全学連のデモ隊2万7千人が国会構内に乱入。警官隊と乱闘。3百人の負傷者を出した事件はいただけないが、プロ野球がカラー中継されたのもこの年である。
田宮(謙次郎)さんが首位打者に輝いたが、球団との話し合いは決裂。大毎に移籍した。小山さんは初の20勝投手に。本間勝はというと、入団した年が3試合。翌年が2試合と、いずれも敗戦処理で登板しただけ。初登板は6月21日、甲子園球場で行われた国鉄(現東京ヤクルト)戦。何故かこの試合はピッチング内容より、ノーヒッター投手の宮地(惟友)さんからプロ入り初打席で中前打を放った記憶の方が強い。初年度は本当、自分でも何をしていたかよくわからないが、2年目は、ウエスタン・リーグの優勝に投の柱として貢献。本格デビューへ大きく前進した。
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