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第三回 「いよいよ本格デビュー 充実のプロ3年目」 [06.11月号掲載]
世の中は平和になってきた。物資は豊富になった。普通に働いておれば十分生活できる。野球は完全に国民の娯楽の一部となった。球場へ足を運んでくれるファンの数は年々増えてきた。本拠地・甲子園球場、まだ100万人の動員には手は届かないが、伝統の一戦、巨人との試合には、5万人を超す観客が詰めかけるようになった。
スポーツ紙の一面を飾り、注目度は高くなったプロ野球だが、タイガースはというと、1960年、早くもカイザー・田中氏(故人)から、金田正泰監督(故人)へと政権交代。さらには、翌1961年の6月には同監督が休養。2年足らずの短命に終っている。代わってピッチングコーチの故藤本定義氏が采配をふるい、同年7月には正式に監督に就任した。目まぐるしい政権交代のあおりではなかろうが、この2年間、チームはいまひとつ勢いに乗れず、60年は最終戦でやっと3位を確保。翌年はBクラス(4位)という苦しいペナントレースをしいられた。
こんな波乱含みの1960年に本間勝はデビューを飾り、最終戦の国鉄(現東京ヤクルト)を相手に、1失点の完投勝利を挙げて、チームのAクラス確保にも貢献した。すんません―。ここからしばらく、自分の世界にはいり込みますので、あしからず。プロ入り初勝利は5月15日の巨人戦だった。場所は甲子園球場。三番は王、四番にはあの長嶋、五番が国松のクリーンアップ。他には百戦錬磨の与那嶺がいた。捕手は監督として西武の黄金時代を築いた森。マウンドにはエースの堀本がいる。
『相手にとって不足はない』と思いつつも、観衆は38,000人。プロ入り2度目の先発だ。緊張のあまり、頭の中は真っ白け。雑念など全くない。ピッチングの組み立て・・・。とんでもない。考える余裕がない。ただキャッチャーミットを目がけて、思い切って投げるだけ。そんな私をリードしてくれたのは山本(哲也)先輩。どんなプレートさばきで、どんな顔をして投げていたかは、自分では全くわからないが、おそらく、先輩のサインに首を振るような事は一度もなかったはずだ。
巨人のエースとガップリ四つに組んだ試合。21歳。若さにまかせてストレートを中心に、ガンガン向かっていった。五回だった。マイケル・ソロムコの援護射撃があった。グランドスラムである。精神的にぐっと楽になった半面、なぜか『これは勝たなくては・・・』のプレッシャーになりかけた。初勝利である。少しでも早く勝ち名乗りを挙げたい気持ちにかられ、焦りがあったのだろう。コントロールが甘くなった。これまで、7イニング無失点。完璧なピッチングをしていたのに・・・。次の回である。O、Nにタイムリー打を浴びて3点を失い、八回途中から村山(故人)さんの助けを借りてデビューを飾った。
感激した。メチャクチャうれしかった。巨人に勝つ事が夢だったが、初勝利がその相手だったにもかかわらず、なかなか実感が湧いてこない。インタビューを受け、ロッカーに上がっても、うれしいのだが、ピンとこない。ゆっくり風呂にはいり、湯舟につかって試合を振り返っていると、金田監督、藤本ピッチングコーチから祝福を受けた。手助けいただいた村山さんからも『おめでとう』の言葉をかけてもらい、やっと実感らしきものが湧いてきた。合宿に帰ってみると、今度は頭が冴えて寝つけない。新聞が待ちどおしい。こんな気持ちになったのは初めてだ。翌朝。一番にスポーツ紙に目をとおした。予想どおり『本間』の活字がおどっていた。
紙面を見て増々実感が湧いてきたが、いつまでも初勝利に酔いしれてはいられない。ペナントレースは待ってはくれない。2日後の大洋(現横浜)戦では、3イニングを完璧リリーフで2勝目をマーク。初完投はというと、5月29日、今度は敵地後楽園球場での巨人10回戦。被安打は5の1失点。相手のクリーンアップは坂崎、長嶋、王と並んでいた。先発はなんと憧れの一人だった故別所毅彦さん。なんとなく複雑な心境だった記憶がある。そして、初完封は8月28日の広島球場でのカープ戦。2ケタとなる10勝目を完封勝利で飾った。
私個人としては充実した年だったが、チームの調子は5月の中頃からBクラスに転落して、なかなか浮上できない。一時は最下位をさまよっている時期があった。大きなダメージを受けたのは、死のロード4戦目だったと思うが、大洋(現横浜)戦で島田源太郎投手に完全試合を喫したこと。明るい材料はなかった年だったが、それでも必死にチームを立て直し、徐々に順位を上げて最終戦でやっと3位。Aクラスを確保した。シーズン最後の国鉄(現東京ヤクルト)3連戦。確か10月5、6日の2日間でダブル、シングルの3試合。後楽園球場、Aクラスの条件は3連勝。5日の第1試合でリリーフして12勝目を挙げ、気を良くして翌日の最終戦で先発した私は、プレッシャーもなんのその、相手に1点を与えただけの完投勝利を飾った。チームとしてもバン万歳。宿舎へ帰ってからのあの充実感。大声で『やったあ!』と叫び回りたくなるような心境。それでいて心地好い気持ち。いまでも記憶に残っている。
どっぷりと自分の世界につかってしまった。『いい加減にせい』、怒りの声があちこちから飛んできそうだが、入団3年目。やっとデビューした。どうにか認められるようになった。世の中を見渡す角度が広くなった。街を歩いていても戦争のイメージはもう消えている。終戦直後の殺伐とした雰囲気はない。平和だ。若い女性を見ると、腕に黒いビニールの人形(ダッコチャン)をひっかけてかっ歩している。飲食品ではインスタントのラーメン、コーヒーが出回っている。ファッション界でも新しい物がつぎつぎと出てきた。
新しい物が出てくれば、古い物は消えていく。プロ野球界も新旧交代の時期を迎えていた。我々が子供の頃に憧れ、苦しい時代にプロ野球界を背負ってきたスター選手が去っていった。藤村(阪神)川上(巨人)西沢(中日)小鶴(広島)が1958年に。翌年が大下(西鉄)青田(阪急)。その他にも服部(中日)川崎(西鉄)別所(巨人)等が次々と現役を引退。代わって長嶋、王(巨人)をはじめ小山、村山(阪神)らの新しいスターが誕生している。
この頃、野球界を最もゆるがした大ニュースといえば、1961年におきたプロ、アマの確執だ。中日ドラゴンズが、当時、日本生命に所属していた柳川福三選手を強引に獲得したことから端を発し、日本社会人野球協会が態度を硬化、『プロ野球の退団者は、いっさい受け入れない』と絶縁宣言。両者間に分厚い壁ができてしまった。この問題は45年経った今なお尾を引いているが、近年、ようやく雪解けムードになってきた。
61年のタイガースはBクラスに落ちてしまったが、パリで行われた国技である第3回世界柔道で、オランダのヘーシンクに優勝をさらわれたショックは大きかった。あらゆる部門で世界の成長は著しく、ソ連(現ロシア)の宇宙船『ボストーク1号』が、ガガーリン少佐を乗せて地球を一周した。今回は私事に終始しまして申し訳ありません。皆さんにお許しをいただいて、次回からの回虎録に『乞うご期待』。
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