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第四回 「三年間で二度の優勝 名伯楽の名采配」 [06.12月号掲載]

  1962年が、101万8千。1964年は、106万4千。二リーグ分裂後の初優勝と翌々年の隔年でリーグ制覇した年の、観客動員数(一シーズン)が、チーム創設以来、ついに百万人を突破した。いくら器の大きい球場とはいえ、巨人は別格として当時のプロ野球界では大変な数字である。本当、何か大きな夢が叶えられたような気がした。

 当然、甲子園球場は盛り上がった。優勝決定の瞬間には、予想外のハプニングが起った。なんと、大勢のファンが内外野のフェンスを乗り越え、グラウンドになだれ込んできた。止められる数ではない。監督の胴上げには参加してくるわ、そこいらへんを走り回わるわ、現在ではとても考えられない事態となった。まあ、そこまでは許せたとしても、気がつくと帽子が無い。グラブが無い。バットも無い。数々の紛失物が出る始末。行き過ぎのひと幕はあったが、この二度の優勝を語るにはこの人を避けて通るわけにいくまい。
 故・藤本定義監督である。名将、名伯楽、好々爺、あるいは狸オヤジ、ヘソ曲り、老獪、天の邪鬼等、数々の異名の持ち主。巨人をはじめ数チームで采配をふるってきた。経験は豊富。我々選手間では、『藤本のジイさん』と呼んでいたが、なんといってもこの世界の重鎮、他チームの監督を完全に見おろしている。二度にわたってペナントを争った大洋・三原監督(故人)は呼び捨て。大スターから監督に就任した巨人・川上さんにいたっては『オイ、テツ』まるで子供扱い。ある意味、我々は優越感を抱き勇気をもらっていたような気がする。
 どこで見つけてきたのか、大洋戦の前になると『三原堂の最中』を購入してくる。『三原なんか、食ってかかればどうってことないよ』と言っては選手に最中を食べさせる。こんな一面も持ち合わせていた監督だが、この行動が直接ゲームを左右していたわけではない。『おもろいジイさんやなあ。まあ、食べてみようか』程度の気持ちで接していたが、我々、気付かないところで、いつの間にか精神面で後押しされていたのかもしれない。そこが、狸オヤジたる由縁といったところか。いま振り返ってみると、すべてが計算されたふるまいだったのだろう。
 我々選手は、ジイさんの手の中で操られていたのか・・・。何ぶん、百戦錬磨の監督だ。よく知られたところでは、ペナントレース一年間のローテーションを、シーズン前にきっちり組んでいた人。予定どおり一シーズンを乗り切ったことがあるかどうかは定かではないが、そういう意味では1962年の優勝は、二本柱の小山さんが27勝11敗。村山さん(故人)が25勝14敗と両輪が期待どおりの勝ち星を挙げており、ジイさん流の計算しつくされた優勝だったといえる。1964年は終盤に二本柱の一本が思わぬ事情で折れ、思惑は大きく狂ったが、首の皮一枚から大どんでん返しをやってのけた。まさに、名将、名伯楽、好々爺、狸オヤジ、ヘソ曲り、天の邪鬼のすべてを出しつくした采配の結果が生んだ優勝だ。

 二リーグ分裂後、一人でタイガースを二度優勝に導いた監督は、藤本のジイさんしかいない。その二度目の優勝時の終盤、直接対決の大洋戦を四試合残したうちの二試合、私に先発投手の機会が与えられた。はじめが九月二十日、川崎球場での26回戦。次の試合が同月二十六日、甲子園球場で行われた28回戦。先のゲームが7回1失点。後のゲームは5回で2点を失った。二試合とも先に得点を与えてしまい、勝ち星はつかなかったが、負けたらその時点で『ジ・エンド』の責任を感じながらの必死の祈りが通じたのか、いずれも逆転勝ちしてくれた。気持ちの上でホッとしたし、非常にうれしかった。先に点を与えてしまったことの悔いはあるが、今選手生活を振り返ってみると、数少ない『いい思い出』となっている。
 話題がちょっと前後するが、1962年は、キャンプ直前に、当時ではまだほとんど聞いたことのない痛風に侵された。経験したことのない激痛に、暫くは動けなかった。実力だろう、自分の力がそろそろ下降線をたどりだした。この年、未勝利に終ったが、有難いことにオープンカーで優勝パレードを体験させてもらった。甲子園球場を出発し、東は尼崎、西は神戸市役所までの道のり。ファンからの温かい声援には感激した。これもいい思い出のひとつだが、わくわくした優勝経験の中で、どうしても疑問を感じる出来事があった。あくまでも私の個人的な見解だが、両年ともリーグの最優秀選手(MVP)に選ばれた選手に納得がいかなかった。運動記者クラブに登録されているマスコミの人による投票で決まるもので、別に不正があっての不服ではない。
 初優勝の年は小山、村山の両輪が火花を散らしていた。どちらかから選ばれるのは間違いない。選出されたのは村山さんだった。成績は57試合に登板して25勝14敗。防御率の1.20と投球回数の366回3分の1はリーグ1位。文句をつける数字ではないし、今でいうセーブポイントがプラス材料になったようだが、小山さんはというと47試合で27勝11敗、防御率は1.66。完投の26と勝率・711のリーグトップはさることながら、新記録の13完封とタイ記録の10無四死球試合は、我々投手からすると『大の字』がいくつもつく大記録だけに、つい首をかしげてしまった。

                               左から:小山、村山、本間
 もっと疑問を抱いたのが二度目の優勝時だ。記者投票で選ばれたのは、55ホーマーの新記録を樹立した王選手(巨人)だった。優勝チームのタイガースに好成績を挙げた選手がいなければ別だが、大貢献した選手がいた。ジーン・バッキー投手である。46試合の登板で29勝9敗は最多勝。防御率も1.89でタイトルホルダー。353回3分の1の投球回数はリーグ一位。どの角度から、どう見ても文句のつけようがない成績なのに何故・・・。この年のMVPはいまだに納得していない。

                                 ジーン・バッキー投手
 優勝−。何度してもいいものだ。今回はこのへんで終ろうと思うが、出筆前、いつものように、ジーッと目を閉じて過去を振り返っていると、ハッと我に返った。1962、1964年隔年でリーグ制覇した後のことである。その後21年間も優勝から遠ざかっている。よーく考えてみた。今回と同じパターンではないか。大丈夫だろうか。マイナス思考になりがちだが、心配ご無用。現状のタイガースなら、軽いジョークとさらっと受け流すことのできる戦力だ。次回はもう一度優勝した頃の出来事をひもといてみよう

 

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