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阪神タイガースの球団発行誌『月刊タイガース』は毎月1日発売。
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第五回 「打たれて悔いなし ワンちゃんとの対戦」 [07.01月号掲載]

  東海道新幹線の開通。94カ国、5541名の選手が参加した東京オリンピックが開催されたのが1964年。前の年には日米間で、テレビ宇宙中継の受信実験に成功している。もう戦争がらみの暗い雰囲気は微塵もない。国の復興を目指す国民の姿は力強く、実に逞しい。どん底から這い上がろうと一心不乱に働き続けた。『日本人は働きすぎ』という他国の批判など、どこ吹く風。努力の甲斐あって日本の経済はうなぎのぼり。成長は著しかった。
 生活に余裕が出てきたのだろう。海外旅行が自由化になると、流行語は『バカンス』。キャバレーなど大型飲食店のフロアーでは、腰をクネクネさせる「ツイスト」なるダンスがはやり、銀座には「みゆき族」が出現。ビートルズ人気で「エレキギター」が世界的ブームになったのがこの時代。プロ野球人気も経済の成長に乗っかり、何事にも白、黒つけたがる日本人の気質にも合い、完全に娯楽のひとつに定着した。伝統の一戦(阪神―巨人)には、甲子園球場へ5万とか6万というファンがつめかけるようになった。
 当時には「優勝旅行」というおしゃれなご褒美はなかったが、タイガースは1963年、そんな計らいもあって海外キャンプを張った。デトロイト・タイガースのキャンプ地、フロリダのレイクランドシティー。日、米タイガース合同で練習。球場の真ん中に監視塔が立ち、グラウンドは4面。広大な敷地の中で練習の流れはスムーズ。バッティング、フィールディング、ランニング、ランダンプレーなど隣のグラウンドへ移動して次から次へと消化していく。何かにつけて、合理的な国の練習らしい。

                         フロリダでの練習風景
  ところが、ひとつの種目の練習時間がきっちり決まっているではないか。タイムアップになれば、たとえ途中であっても次の種目へ移る。たとえばバッティング。時間内に順番が回ってこない人は、1本も打っていなくてもそこで終わり。当然二日目からは軌道修正したが、じっくり時間をかけて行う日本の練習との違いに戸惑った。
 戸惑いと言えば、この時代、アメリカの野球と日本の野球にかなりの隔たりがあった点。当然我々投手陣はデトロイト・タイガースのピッチングコーチの指導を受けた。数々のアドバイスの中で、あの小山、村山の両輪に『ボールの握りをいろいろ変えて、もっとボールを動かせろ』の言葉が・・・。一瞬目を疑った。まだまだストレート中心のピッチングで十分通用する力を持っている投手だけに疑問を感じた。私も同じ事を言われ、何となく抵抗はあったが、のちのち、ある投手を見て『うーん、あの海外キャンプのアドバイスを』と思い直したが、ときすでに遅し。その投手とは前回に登場したジーン・バッキー投手である。彼が投げる球はホームベース上でほとんど変化していた。
 宿泊施設はというと、何と兵舎のような建物。木造の二階建て。四人部屋でギシギシ音がする簡易ベッド。トイレといったら各階に一カ所。それも小便はいいとしても大のほうが大変。洋式でひとつひとつ区切ってあるのは普通だが、入り口のドアがない。壊れているわけではなく、はじめから付いていないのだ。用を足しにきた人からは丸見え。メチャクチャ抵抗があった。出るものも出ない。生活の知恵といったらいいのか、思いついたのがバスタオル。画鋲とか、テープでちょうど見えないところに、きっちり貼り付けてキバッたものだ。
 トイレ事件は他にも―。我々タイガースは黒人選手と同じ棟で寝起きしていた。明るい時間帯は問題ないが、暗くなってきてからのことである。トイレを境に黒人選手と我々は分かれていた。電気がついているのはトイレのみ。ここまで説明しただけで、お分かりの人もいるだろうが、みんな寝静まってからトイレに行く時、寝ぼけ眼で用足しに向かっていると、突然反対側から黒い物体が・・・。『ハーイ』機嫌よく挨拶してくれるのはいいが、まったく気配を感じない所からフワッと人が現れる。「ドキッ」心臓が飛び出しそうになった。また、敷地内の川や池にはワニが生息しているとか。一度お目にかかりたかったが、期待はずれに終わった。
 球団の粋な計らいで、帰国時ハワイに立ち寄って二泊した。さすが楽園。ワイキキビーチは目の保養になった。翌日、オアフ島観光のバスを用意してくれたがキャンセル。ビーチで水泳を楽しみ、サーフィンも試みたがなかなかうまくいかない。村山さん若生さんらと機嫌よく一日遊んだ代償はというと、あの藤本のジイさんのカミナリ。当時はまだ水泳厳禁の時代。村山さんを筆頭にこっぴどく怒られた。

 海外キャンプに行った年、5つの勝ち星に恵まれた。いまだにはっきりと記憶に残っている1勝がある。この年のオフに結婚式を挙げた現在の妻が観戦に来場した川崎球場での大洋(現横浜)戦。1対0で完封勝ちした。いい格好できた安堵感と目の前で雄姿を見せられた満足感。気分は爽快だったが、さらに鮮明に頭の中にインプットされている1球がある。
 1964年5月3日の出来事。カウント1-2からの4球目。ストレートはやや外よりの甘い球。巨人・王選手(現ソフトバンク監督)の強振したバットがとらえた打球は、ライナーで後楽園球場の右中間スタンドへ突き刺さった。突き刺さったという表現がピッタリの打球。そう、王選手が1試合4打席連続ホーマーの日本記録達成した瞬間である。その時、マウンドでア然として打球を見送っていたのは筆者、そう、本間勝だった。『クソーッ』一瞬怒りがこみあげたが、あまりの見事な一発には脱帽するしかなかった。あの打席のワンちゃん、集中力は物凄かった。
 宿舎へ帰ってからは、あの一発を思い出しても悔いはなかった。中には『そんな無理して勝負する事なかったのに・・・』とか『歩かせてもよかったんやで・・・』などの意見をくれた人はいたが、自分自身で出した結論は『四球で歩かせていたら、逆に自分に物凄く悔いが残っていただろう。なんぼホームランバッターの王選手とはいえ、滅多にないチャンス。逃げなくてよかった』だった。実力的に下降気味の私。上昇気流に乗り、飛ぶ鳥を落とす勢いの王選手との差。そう、実力の差が出た一発だったが、歩かせていたら、おそらく未だに悔やんでいるだろう。
 あの時、マウンドへ上がる前、ベンチでへらず口をたたいていた。『もう3本も(ホームランが)出てるんやから、打ち止めやろ』である。過去、1本もホームランを打たれていない自信が言わせていた言葉だろうが、結果はご覧のとおりだった。対王選手。何十打席と対戦しているが打たれたホームランはこの1本だけ。打率も1割台。見え見えの言い訳でゴメン。選手生活10年、私が唯一球界に残した記録?だ。

 その頃、タイガースに球界を揺るがす大きな動きがあった。1963年。「世紀のトレード」と言わせたエースと四番バッターの交換。阪神から小山、大毎(現千葉ロッテ)から山内。互いにチームがプラスになる『これがトレード』の評価を得た素晴らしいもので、決してお家騒動ではなく、チーム内は安定期にあった。日本のプロ野球の注目度は高くなった。娯楽として大いに楽しめる世の中になったが、この年、アメリカではケネディ大統領が凶弾に倒れた。翌年にはベトナム戦争の遂行権限を米大統領に付与するトンキン湾事件が・・・。近年同様ドロドロしたニュースが紙面をにぎわせていたが、そんな中、本間勝は住みなれた関西から、博多へ旅立った。

 

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