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第六回 「復活をかけた西鉄移籍〜28歳で第二の人生へ」 [07.02月号掲載]
西鉄ライオンズ(現西武ライオンズ)に移籍した自主トレ初日、まず目に飛び込んできたのは、『雪』だった。今ふうの言葉で表現するなら「ウッソー、マジー」とにかくびっくりした。我々、無知な人間は、九州といえば各県すべてが温暖の地だと思い込んでいた。何とホームグラウンドとなる平和台球場は一面真っ白けではないか。どうしても納得がいかない。タイガースの先輩で私より四、五年前に西鉄へ移籍していた伊藤光四郎さんに早速聞いてみた。
「福岡というところをよーく考えてみろよ。日本地図を見ればすぐわかると思うが、福岡は日本海側に面しているやろ。冬は結構寒いし、雪なんかそんなに珍しいもんとちゃうで」
理解するのに少々時間を要したが、なかなか説得力のある説明に納得した。これだけではなかった。キャンプ地である。長崎は、あの雲仙・普賢岳の裾野にある島原市。ここもかなり冷え込む。グラウンドにはよく霜柱が立っていた。要するにイメージしていた『冬でも暖かい九州』は、宮崎とか鹿児島など南九州に行かないと味わえないようだ。ちなみに、キャンプ時島原での宿舎は普賢岳が噴火した際、島原市長として大活躍された、鐘ヶ江さんが経営する国光屋旅館だった。

西鉄時代の身分証明書
余裕など全く無い。トレードは復活のチャンスだと考えていた。気分一新。心機一転。気分の転換はマンネリ化から脱出できる。移籍して花を咲かせる選手は多々いる。現在のタイガースでいえば、ホームベースをしっかり守っている矢野など、その典型的な一人。下柳しかり。今、ファームでコーチをしている伊藤敦規、遠山奨志もトレードで生き返った選手。迎え入れたチームの期待度と、気持ちを入れ替えて挑戦する選手のやる気が合体した時、いい結果を生み出す。
単身で福岡入りした。「妻子には寂しい思いと、苦労をかけるだろう」と後ろ髪を引かれながらも、イチからのスタートを肝に銘じて合宿にお世話になった。少しでも野球に専念できる環境作りが狙い。合宿所の前は夏には海水浴場になる海岸があった。足腰を鍛えるための条件はバッチリ。この寮からは球界のスター達が巣立っている。当時西鉄の監督だった中西太さん。稲尾和久さん。仰木彬(故人)さん。東尾修さん。そして皆さんよくご存知の真弓明信もここから産声をあげた一人。
一緒に合宿所生活した中で異色の人といえば、『ジャンボ尾崎』だ。そう、日本のゴルフ界を背負ってプレーした尾崎将司プロである。当時からゴルフはうまかった。並みの腕前ではない。二度ほどラウンドしたが「コイツには絶対勝てない」と舌を巻いた。あの全盛時の活躍を見れば当然だが、野球がダメだったかというと、とんでも無い。甲子園大会の優勝投手も、すでに打者に転向していたが、そのパワーは抜群。ひと目見て技術的にも『将来の西鉄の四番バッター』を想像した。彼が覚えたての麻雀を時々お手合わせしたが、あの頃、勝負強さはいまひとつ。どちらかといえば欲の無いほうだった。
西鉄ライオンズに骨を埋める覚悟で復活を目指したが、野球以外の問題でショックを受けるとは・・・。今、単身赴任している全国の皆様、お宅もそうでしょうか。移籍する前の年の七月に生まれた長男が、なかなか懐いてくれない。当時関西には南海、阪急、近鉄の三チームが存在していた。結構家に帰っていたと思うが、帰阪して母親に抱かれている息子に「おいで」と手を差し出すと、「イヤ、イヤ」をして、くるっと反対側に顔をそむけてしまう。歩けるようになって空港などへ迎えにきても、母親の後ろに隠れて出てこない。家にいるのは三日から長くて一週間。なんとかなだめて風呂にはいれたと思ったら、またお別れ。同じ事の繰り返しは辛かった。
力不足は否めなかった。成績はというと一年目は27試合に登板して0勝2敗。49イニング3分の2投げて防御率は1.80。防御率でもう一年残留できたようなものだが、二年目は4試合に登板しただけ。シーズンインした直後だったと記憶している。ピッチングコーチから「アンダースローに挑戦してみないか」のアドバイスを受けた。その瞬間だった「終った・・・。」野球生活に終止符を打つ決心をした。
世の中はミニスカート、グループサウンズが大流行。フーテン族の出没。新3種の神器は『3C』カラーテレビ、カー(車)、クーラーの時代となった。法務省が集計した日本の人口が1億人(1億55万4894人)を突破する中の第二の人生。有り難いことに、アシストしてくれたのは中西太監督だった。 |
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