本間勝交遊録
16人目 安藤統男
マスコミサービスを重視した気遣いの人 [10.7月号掲載]
 激情的である。頑固者である。天の邪鬼でもある。我がままな人特有の気性すべてを持ち備えていたが、意外や、もうひとつ、性格から見て珍しい一面があった。人の話を聞く耳を持っていたことだ。無理矢理自我を通すところ、自重するところを心得ていた人。しかし、久々の対面も安藤氏が監督として、私が広報担当としては初めての体験。お互い、野球の本質、マスコミの内幕は知り尽くしているものの、不安がないはずがない。キャンプに入った。この時期、まだ厳しい内容の紙面はほとんどない。神経をピリピリ尖らせる必要はないが、練習後などよく監督の部屋へ行って、雑談を交えながら話し合ったものだ。
 自分自身が新聞記者として相手に求めてきたこと。虎番記者が監督に要求してくること等々、私がマスコミの世界で経験したことの中で気になったことを伝えたりした。その中で一番強調したのが、担当記者とのコミュニケーションである。その理由は『野球を担当する記者であっても、野球を経験している人はわずかしかいない。ましてや、プロ野球経験者などは皆無に等しい。だから、虎番記者が“安藤野球”というものを理解してくれるようになるまで、どんどん野球の話をしてやってほしい』からだった。番記者が安藤野球を理解してくれることによって、安藤作戦の意図も理解してくれる。広報担当として、こういう関係が理想だと思っていた。
 『なるほどなあこれから時間があったら担当記者と雑談するわ』この点が他の監督と違うところ。敵愾心を持ってしまっては溝は深くなるばかりだが、実行もしてくれた。ペナントレース中の遠征先。ナイトゲームになると、監督も昼間は手の空くときがある。常宿にしているホテルの喫茶とかレストランに、昼頃から虎番たちが取材をかねて集まり出す。広報担当の私としては、番記者を放っておくわけにはいかない。ありがたいことに、ホテルによっては店の一角を虎番用にキープしてくれていた。溜まり場をのぞきに行くと、すでに各社の皆さんが集まっているとき、または、チラホラと集まりかけているときなどさまざまだが、コーヒーを飲みながら雑談していると監督が顔を出す。
 『やあ・・・・・。皆さんご苦労さん』安藤監督を囲んで話の輪が広がる。中心はやはり野球の話だが、結構ジョークの好きな人。冗談を連発しダジャレをしこたま発して部屋へ帰ることもあった。記者の人も、取材することによって原稿を書く時の財産になるからありがたい。星野元監督のように、朝食を一緒にしたりすることはなかったが、1982年、安藤監督はすぐにマスコミとのコミュニケーションを計っていた。テレビ、ラジオ、新聞の報道が、チームにとっていかに大事であるかを心得ていた人。だから、ここまでのマスコミサービスができたに違いない。こんなこともやってくれた。試合後などの監督談話が意図に反して報道された場合である。当然ホテルで喫茶に下りてくることはない。球場入りしてからも、ふだんはしばらくベンチで雑談してから、グラウンドに出て行っていたが、意識して外野へ直行した。『アレッ。今日の監督はおかしいな』一瞬記者の人たちは考えるが、皆さん、当然各紙に目を通している。およそのことはわかるのだろう。仲間同志、何やらヒソヒソ話をしていた。同監督『今日は外野から練習を見ましょうか』のひと言で動いてくれたからありがたい。
 マスコミサービスは、これだけで終わらない。アルコールは体が受け付けない人。お酒の付き合いはできない。ならばと進んでお手合わせをしたのがマージャン。キャンプ中、私も何度か同行したが、キャンプ地では、いつも虎番たちが宿泊している旅館へ殴りこみに行った。賭け事は好きだった。ペナントレース中も、ちょくちょく担当記者と宅を囲んだ。移動日のある遠征に出た日。この時も同行していたが、遠征先の雀荘で一緒に勝負していた。これもマスコミサービスの一環。元々博才には長けていた。互いに現役時代も時々お手合わせをしたが、なかなかの勝負師。この世界では競馬通でも名が通っていた。
 慶応ボーイ。おまけにキャプテンだった。洗練されていた。垢抜けしていた。スマートで恰好良かった。まだプロ入りは自由競争の時代。鳴り物入りで入団してきた遊撃手も、1962年、入ってきた年代が悪かった。セカンド鎌田、サード三宅秀、ショート吉田の夫人は十二球団ナンバーワン。簡単に追い付き、追い越せる相手ではなかった。東京六大学の安藤とはいえ、レギュラーポジションを獲るまで、相当の苦労があったはずだ。そういう意味では苦労人。苦労しているがゆえに、裏方の気持ちがわかり、まわりへの気遣いができたのだろう。
 残念ながら、結局三年でユニホームを脱ぐことになってしまった。ある日『マーチャンー。いろいろ迷惑をかけたなあ。オレ、やっぱり辞めるわあ』実家へ墓参りに行き、気持ちの整理をして帰阪した時にはやる気になっていた。その矢先の連絡。まさかの退陣だった。理由を聞いて、いま一度慰留する気にはなれなかった。十数年後、再度監督の要請があったようだが、この時も前回同様、本社ー球団が意思の疎通を欠いて実現しなかった。1984年、小津社長(故人)も退社されたが、安藤監督を思い出すと、何故か頭に浮かんでくるのは同社長である。『オズの魔法使い』『ブルドーザー社長』ニックネームは猛々しいが、実に情があり、めんどう見のいい人だった。次回は小津元社長で・・・・・。

列伝その16
安藤統男
1939年4月8日生まれ。茨城県出身。土浦一高-慶応義塾大-阪神タイガース。1982年、長期政権を築くことを期待され、タイガース監督に就任したが、在任期間中は3位、4位、4位と結果が出なかった。しかし在任期間中にバースの入団、山本のリリーフ再転向、平田のレギュラー抜擢による真弓、岡田のコンバート、木戸、中西、池田をドラフトで、弘田、永尾をトレードで獲得するなど戦力整備を進めた。彼らは1985年のリーグ優勝、日本一に欠かせない戦力となったため、後年この快挙の基礎を築いたと評された。また、安藤の就任に伴って大幅にモデルチェンジされたホーム用ユニホームは数度のマイナーチェンジを重ねつつも、2006年シーズンまで基本デザインは踏襲された。
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