本間勝交遊録
25人目 藤本定義
六球団で二十九年 名実共に「大監督」の素顔[11.7月号掲載]
 川上監督を〝テツ〟と呼ぶ。水原監督(故人)は〝おミズ〟 当時大洋の指揮を執っていた三原監督(故人)も、当然のことながら呼び捨て。三人ともその時代の大監督だったが、藤本定義さん(故人)にとっては、巨人監督時代の教え子。我々若者から見ると、雲の上の存在である人達を頭ごなしにする『凄い人がきた』と意を強くした記憶がある。縦社会のプロ野球界。当たり前のことかもしれないが、我々にとっては、何か凄い人がバックにいるような気になった。私がデビューした年から、ピッチングコーチとしてタイガースへ。1961年の途中から監督に就任。唯一、阪神を二度のリーグ優勝に導いた人。プロでは選手としての実働はないが、巨人を皮切りに監督歴は二十八年。数々の功績を残して1974年に野球殿堂入りをした。
 年齢的にも〝球界のドン〟だった。表面的には好々爺的存在のように言われていたが、どうして、どうして。我々の耳に入ってくる噂たるや『狸オヤジ』『ヘソ曲がり』『老獪』『天の邪鬼』等々。何か良からぬ呼び名ばかりが聞こえてくる。確かに一筋縄ではいかない人だった。1964年だったと思う。場所は広島球場での対広島15回戦。審判のジャッジをめぐって大揉めに揉めた。試合は二時間半の中断。怒ったファンがグラウンドへなだれ込むなど、バックネット等、球場の施設が破壊されて収拾不可能。再開の見通しがたたずに中止。翌日からの二試合も中止を余儀なくされたのは、審判団の説得ににも、ガンとして首を縦に振らなかった藤本監督がいたから。
 まだある。放棄試合までやっている。1967年である。甲子園球場での対大洋24回戦だった。事の始まりは自軍(阪神)の捕手にあった。二死満塁のピンチ。相手打者を三振に仕留めたところまではよかったが、その空振りした球をワンバウンドで捕球していながら、球をそのままマウンド方向に転がしてベンチへ引き上げてしまった。打者へのタッチはしていない。満塁だったので、ホームベースを踏んでおくだけでもよかったのに、それも怠った。そして、一塁への投球もなし。当然相手は打者走者を走らせる。三塁ランナーは生還して1点を追加する。この時点で球審がタイムをかけ、阪神が再び守備に着くように指示したが、どうしたことか納得できないのが藤本監督。審判の支持に応じないばかりか、ついには、アンパイヤーに手を出して退場になった。天の邪鬼ぶりを大いに発揮したことは同監督らしいが・・・。
 まさに頑固オヤジといったところだが、1962年、阪神を二リーグ分立後初のリーグ優勝に導き、翌々年にもペナントを制した。藤本監督は、シーズン前に一年間のローテーションを組むことで知られた人だった。自室にこもり、人を一切寄せ付けず一人黙々と机に向かっていたという。初優勝の年は小山、村山を中心に組み、二度目の年は村山、バッキーを軸に回転させた。当時はまだ中三日でローテーションを回していた時代。当然チームのエースは勝ちゲームであれば試合の後半からリリーフで登板する。現在のプロ野球界のように先発投手と救援投手の役割分担などない時代。あの複雑な投手起用をしていた頃のやりくりだから大したもの。我々現役選手には見せてくれなかったが、一度は目を通してみたかった。
 選手に暗示をかけることにも長けていた。さすが狸オヤジだ。優勝争いをしていたのが二度とも三原監督率いる大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)だった。当時の大洋のホームグラウンドは川崎球場。我々の宿舎は、東京は本郷三丁目の清水旅館。毎日、東京から川崎までバスで通っていたわけだが、その本郷に『三原堂』という和菓子屋さんがあった。同監督、相手が大洋となると、連日その三原堂で最中を買ってきて選手に食べさせた。その理由が『三原なんか恐れることはない。食べてしまったらなんてことはないよ』である。選手に勇気を与えるために使った手。狸オヤジのゆえんが垣間見える。
 天の邪鬼、ヘソ曲がりはいいとしても、苦労が絶えなかったのがヘッドコーチの青田昇さん(故人)。何を進言しても応えはノー。同ヘッドが『それなら』と考えをかえたのが逆説である。例えば、選手の調子などを見ていて『明日のオフは練習した方がいい』と思った時は『明日は休みます』と持っていく。すると案の定『何をいうとるんかあ。明日は練習しかないよ』ときた。成功である。チームの参謀は大変だが、これが青田氏の藤本監督操縦法となった。最近では、島野ヘッドコーチ(故人)が同じことをいっていたのを思い出した。要するに、星野監督(現楽天監督)を操縦するのに使っていた手だったのだ。
 頑固オヤジも持病の痛風には手を焼いていた。時には片方の足にサンダルを履いて球場入りしていたほど。かなり痛みはあったようだが、好物が魚というより、どちらかというと肉系。アルコールも結構いけるというからなかなか治らない。だからといって野球が疎かになったことはない。やはり〝名伯楽〟の一人だ。
 この連載、今回は年配者が続いてしまった。関わりを考慮しながら続けていくと、どうしてもこうなりがち。そこで次回は、昨年若くしてこの世を去ってしまったが、パッと明るく、小林繁投手で若返ってみたい。
列伝その25
藤本定義

1904年12月20日生まれ。愛媛県出身。右投げ右打ち。旧制松山商業学校、早稲田大学時代は投手として鳴らし、東京鉄道局(現JR東日本)野球部の監督を経て、巨人の初代監督に就任。プロ野球創成時からの黄金期を築いた。以降、太平、金星、大映等の監督を歴任し、1960年から大阪(阪神)タイガースのコーチ、翌年途中から監督に就任した。監督としての実働29年は現在も最長記録。通算3200試合の指揮を執り、リーグ優勝9回。1974年に野球殿堂入りを果たした。1981年2月18日に76歳で逝去。

49人目 三好一彦~ 『虎の穴』の生みの親 [13.10月号掲載]
48人目 猿木忠男~ 虎の歴史とともに歩んだ名物・名トレーナー [13.9月号掲載]
47人目 木戸克彦~  虎一筋三十余年 今を支える苦難の日々 [13.8月号掲載]
46人目 中田良弘~  気さくな『男前』投手との意外な接点(?) [13.7月号掲載]
45人目 江藤愼一~  セ・パを渡り歩いたバットマン 〝闘志〟の裏の優しい笑顔 [13.6月号掲載]
44人目 和田博実~  「野武士」の理論派の意外な一面 [13.5月号掲載]
43人目 杉下茂~ 憧れの〝フォークの神様〟温かな気遣いの思い出 [13.4月号掲載]
42人目 王貞治~ 世界のホームラン王に打たれたあの一本 [13.3月号掲載]
41人目 新庄剛志~ 予測不能な天性のスター [13.2月号掲載]
40人目 野村克也 その二~ 虎に浸透させた「野村の考え」 イメージに反して意外な一面も [13.1月号掲載]
40人目 野村克也 その一~ 虎を変えた名将 気の毒な退団劇の顛末 [12.12月号掲載]
39人目 久万俊二郎 ~ 自ら動いてチーム再建に尽力 酸いも甘いも噛み分けた名物オーナー [12.11月号掲載]
38人目 根本陸夫 ~ チーム強化に辣腕を振るった「球界の業師」その素顔 [12.10月号掲載]
37人目 竹之内雅史 ~ 独特のフォームがトレードマーク 寂しさの残ったチーム離脱 [12.9月号掲載]
36人目 田淵幸一 そのニ ~ 強運と声援を味方にした 本物の四番打者 [12.8月号掲載]
36人目 田淵幸一 その一 ~ 天性の「人柄」が育んだホームランアーチスト [12.7月号掲載]
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34人目 前岡勤也 ~ プロでは花開かずも 昔も今も変わらぬ好人物 [12.5月号掲載]
33人目 藤本勝巳 ~ 「努力」で輝いた野球人生 [12.4月号掲載]
32人目 田宮謙次郎 ~ あと一人で逃した 球界初の〝完全試合〟 [12.3月号掲載]
31人目 梶岡忠義 ~ 小さな体に不屈の魂 生涯〝野球大好き人間〟 [12.2月号掲載]
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29人目 山本哲也 ~ 「名捕手」の条件を全て兼ね備えた良き女房役 [11.12月号掲載]
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26人目 小林繁その2 ~ 「男の美学」 を貫いた生涯 [11.9月号掲載]
26人目 小林繁 ~ 「悲劇のヒーロー」 イメージと戦った人気者の素顔 [11.8月号掲載]
25人目 藤本定義 ~ 六球団で二十九年 名実共に「大監督」の素顔 [11.7月号掲載]
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23人目 ランディ・バース ~ チームに馴染む努力を惜しまなかった 史上最強の助っ人 [11.4月号掲載]
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5人目 真弓明信 ~小さな体でコンスタントに力を出せたその訳は・・・ [09.7月号掲載]
4人目 岡田彰布 ~その2~したたかに、抜け目無く、それでいながら無頓着 [09.6月号掲載]
4人目 岡田彰布 ~気遣い上手で、したたかで、選手時代から発現していた類い稀なるリーダーシップ [09.5月号掲載]
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3人目 掛布雅之 4番としての矜持 [09.3月号掲載]
2人目 村山実 「炎のエース」との水遊び [09.2月号掲載]
1人目 藤村富美男 物干し竿で記録と記憶を残した栄光の背番号「10」 [09.1月号掲載]
4月号4月号
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