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本間勝交遊録
[9.6月号掲載]
4人目 岡田彰布 〜その2〜
したたかに、抜け目無く、それでいながら無頓着

 したたか者ー。国語辞典で意味を調べてみた。そのひとつ(1)が、簡単にはこちらの思う通りに扱えない人。であり、いまひとつ(2)は、手ごわい人。とある。こと野球に関して選手時代、監督時代の岡田氏を振り返ってみると、ぴったり当てはまる。野球人・岡田彰布は、まさに“したたか者”である。
 監督に就任して、最もしたたかな面を表現したのは“J、F、K”の確立だろう。まさしく(2)の『手ごわい人』そのままだ。(1)の『簡単にはこちらの思う通りに扱えない人』は、相手の裏をかいたり、裏の裏をかくに至るまでの敵を欺く作戦で、毎試合ごとの采配でお披露目している。ところが、J、F、Kという強力リリーフ陣の確立は、他チームには脅威だった。『タイガースとの試合はJ、F、Kが登板する前にリードしておかないと勝てない』と思わせるだけで、相手の焦りを誘い、何度も作戦ミスを誘発したはずだ。この強力リリーフ陣が敵に植え付けたイメージは、まさしく『手ごわいヤツ』だったに違いない。さすが、したたか者だね。
 選手時代にも、したたかな岡田氏を見てきた。二塁手岡田。私がフロントマンとして、タイガースに復帰。広報担当としてチームに同行。何試合も戦っているうちに『この男、凄い選手やなあ』と驚いた。併殺プレーである。三塁手、遊撃手からの送球を捕球して、一塁手へ転送する。その際二塁手がいちばん気を付けねばならないのが、走者との接触だ。相手はダブルプレーを阻止しようと、かなり激しいスライディングをしてくる。時には故意に体勢を崩しにくる。スパイクのケンを向けての体当たりがあれば、足蹴り、足払いもある。大変危険を伴うプレーだが、それを逃げることなく、地に足付けてプレーしていたのが同氏である。
 大怪我をする恐れがある。試合への欠場を余儀無くされる。選手にとっていちばん怖い事態だ。ある意味、おまんまの食い上げ。そこで故障防止のためのプレーを身に付けるのが普通。ジャンピングスロー、走者を避けるためのステップをしたスローイングの練習をするものだが、岡田氏は普通の人ではなかった。ランナーを避けて一塁へ転送するシーンを見たことがない。長年野球に携ってきたが、こんな二塁手にお目にかかったことはない。少々のことでは故障しない頑丈な選手だったのは確かだが、感心するというより、私には不思議でならなかった。ある日、この疑問を本人にぶつけてみると、実にしたたか者らしい答えが返ってきた。
 返事は簡単明瞭だった。『そりゃあ、避けたことなんかないもん』である。ごく当たり前だと言わんばかりの表情で話す。よーく考えてみると、あることに気が付いた。そういえば、二塁手・岡田を目掛けて突進する他チームの選手はいなかった。何故かー。詳しく聞いてみた。『試合前の練習があるでしょう。あの時にですねえ、相手チームがグラウンドい入ってきたころを見計らって、ダブルプレーの練習をするんですよ。そして、一塁への送球は、必ず下(アンダーハンド)から投げていた。相手はそれが怖いから向かってこなかったと違いますか』ここまで計算して練習をしていた。したたか者以外のなにものでもない。
 下手からの送球は、走者の顔面を直撃する恐れがある。かつて、大学野球での併殺プレーで、二塁手の送球を直接顔面に受けて亡くなった選手がいた。かなりの話題となった事故であり、当時の選手なら誰もが知っていたはずだ。やはり怖い。『あいつに向かっていったら、ヤバイ』というイメージを植え付けていたのだ。要するに、試合前から相手と勝負をしていたのだから凄い。それも、こうなることを予測して練習を行い、それを現実にしたのだからたいしたもの。こんな選手はまずいない。
 抜け目のない男である半面、一方では信じられないほど“無頓着”な一面を持っていた。それが商売道具とくるから信じられない。プロ野球の選手で、特に内野手であれば使いこなしたグラブは、宝物といっていいほど大事なもの。なかには入団してから引退するまで、何度も手入れを繰り返して同じグラブでやり通した選手がいるのに、同氏は何と一年ごとに平気で新しいものに変えていた。バットしかり。他の人たちは、バットの芯の音にはかなり敏感だが、全く気にしない。『ようこんなバットで・・・』こんな声も聞かれたほど、したたかな面と相反するところが面白い。
 1985年からのV戦士が続いたところで次回は、岡田前監督からバトンを受け継いだ、真弓現監督に登場していただこう。
列伝その4
●岡田彰布
北陽高(現・関西大学北陽高)〜早稲田大〜阪神タイガース(1980-1993)〜オリックス・ブルーウェーブ(1994-1995)〜 オリックス・ブルーウェーブ(1996-1997<ファーム助監督兼打撃コーチ>)〜阪神タイガース(1998-2008<1998ファーム助監督兼ファーム打撃コーチ、1999ファーム監督兼ファーム打撃コーチ、2000-2002ファーム監督、2003一軍内野守備走塁コーチ、2004-2008一軍監督>)
 父親が三宅秀史ら阪神タイガースの選手と親交があったことから、幼少時よりタイガースと縁深く育つ。北陽高校時代には1年生ながら甲子園に出場、早稲田大学進学後は1年生からレギュラーとして活躍。ドラフトでは6球団競合の末、タイガースが交渉権を獲得した。
 ルーキーイヤーに新人王を獲得するなど、プロ入り後も中心選手として活躍。なかでも、1985年4月17日の巨人戦(甲子園)でのバース、掛布に続いたバックスクリーン3連発は伝説となっている。この年は五番打者として打率.342、35本塁打、101打点と打撃3部門でいずれも自己最高の成績を残した。
 選手時代晩年はオリックスに移籍して代打の切り札として活躍し、1995年には自身二度目の優勝を経験。その年のオフに現役を引退した。
 オリックスファーム助監督兼打撃コーチを経て、ファーム助監督兼ファーム打撃コーチとして1998年にタイガースに復帰。ファーム監督、一軍内野守備走塁コーチを経て2004年から一軍監督に就任。1年目こそ4位に終わったものの、2年目の2005年には藤川、久保田、ウィリアムスでJFKを確立、今岡の五番転向、安藤の先発転向、鳥谷のショート固定など岡田色を前面に押し出してリーグ優勝を飾った。以降昨オフに退任するまで、毎年優勝争いを繰り広げるチームを作り上げた。

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