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本間勝交遊録
[9.11月号掲載]
8人目 尾崎将司
異業種への華麗なる転身

 『この男には、どうあがいても勝てん』完全に脱帽した。
 野球の話ではない。シーズンオフになって勝負したのはゴルフである。相手が悪かった。あの“ジャンボ尾崎”こと尾崎将司プロ。当時の名前は『正司』だったはず。まわりから『そんなの当たり前やないか。何寝惚けとんねん』と怒りの罵声が飛んできそうだが、お互い、まだ西鉄ライオンズのユニホームを着ていた時代の話。私も、80台前後のスコアーでラウンドしていたころだ。ある程度の自信はあった。それが・・・・・。一緒にプレーしてみてビックリ。腕前は相当なものだと聞いてはいたが、まあよく飛ぶ。飛距離は桁外れ。常に20〜30ヤードは置いていかれる。アプローチ、ピタリと止まる。パター、高麗グリーンの時代だったが芝の読みは確か。タッチも申し分ない。本当、軽〜くあしらわれた。
 ゴルフだけではない。本職の野球でも、誰もが認める長距離砲。魅力は十分。立派な特長を持ったスラッガー。持ち味のパワーは物凄い。高々と舞い上がった打球は、きれいな放物線を描いてレフトスタンド、左中間スタンドで跳ねる。まさに、ホームランバッターのそれだ。彼のバッティングをひと目見た時、今後、実践の経験を積んでいけば、間違いなく将来、ライオンズのクリーンアップを担う素材だと思った。
 高校時代、甲子園大会で徳島海南を頂点に導いた優勝投手。将来を嘱望されてプロ入りしたが、私が西鉄へ移籍した年、入団して二年目だったが、早くもバッターに転向していた。ファームではすでに“四番”に座っていた期待の選手。あのバッティングセンスと飛距離を見せつけられては、早々と投手に見切りをつけた首脳陣の気持ちが、手にとるようにわかった。一年後、あるいは二年後が大いに楽しみな人材も、練習中、同氏の行動に注目していると、プロの世界だ。あってはならない欠点がひとつあった。
 ちょっと目を離すと姿が見えなくなる。なかなか手を抜くのがうまい。というか、要領がいいのか、悪いのかよくわからない。グラウンドで『コラッー、尾崎ー。どこに隠れとるんやぁ。早くグラウンドへ出てこ〜い』すぐバレている。コーチが大声で叫ぶ光景をよく目にした。こんな一面を持っていた憎めないヤツ。真面目に野球と向き合っていたら・・・・・。と思ったこともあったが、実働三年、球団に『依願退団』まで申し出て、プロゴルフ界への転身。大成功したのが凄い。
 尾崎氏のゴルフにまつわる噂はいろいろ聞いた。『野球の練習が終わったら、毎日ゴルフの練習場に通っている』とか『アイツのバットケースの中には、ゴルフクラブが入っている』などー。実際にこの目で見たことはない。真実まではわからないが、ゴルフが好きであったのは確か。プロ野球界に入ってまだ二年目。好きでなかったら、こんなに早い段階でシングルプレイヤーとスクラッチで勝負する腕前にはなっていない。そして、数年後には数年後にはゴルフ界を背負っていた。現在のゴルフ人気は同氏の活躍があってのこと。桁外れの飛距離はゴルフファンの度肝を抜き、果敢に攻める大胆なゴルフがファンを魅了した。過去に存在しなかったタイプ。ジャンボ尾崎の人気は急上昇していった。
 野球の夢は叶わなかった。どちらかといえば落第生だろうが、野球をするために鍛えた財産(体力)がある。『好きこそものの上手なれ』手抜きなどとんでもない。技術の向上、精神面の鍛錬に没頭した。この世界の厳しさは承知の上、これまで数々のプロ野球出身者が挑戦しながら、現在までトッププロとして活躍した選手は他にいない。尾崎氏がいかにゴルフに集中し、努力を惜しまず打ち込んできたか。国内通算最多の112勝(ツアー94勝)がすべてを証明している。
 当時を振り返ってみると懐かしい。同氏にゴルフで勝てないのは身をもって体験した。ならば『ゴルフの敵は麻雀で』と合宿所で時々手合わせをした。キャリアの差。溜飲を下げた記憶はあるが、そこで同氏が事あるごとに口にしていた言葉が『ファッキュー』(ファックユー)面白いものだ。このジョーク、いつの間にかニックネームに。『つまらんこと思い出さんでもいいのに・・・・・』ジャンボの声が聞こえてきそうだが、有言実行。意識して強気な発言をする。自分で自分にプレッシャーをかけ、気持ちを盛り上げてトーナメントに挑戦する。自信のあらわれだ。ライオンズのユニホームを着ていた時より大きく見えた。全盛時、ゴルフ上達法を問うてみると『本間さんのゴルフでは無理』久々に会って、大笑いのやりとりをしたこともあったが、私の中でゴルフの先駆者といえば、タイガース時代の小山さん。次回は320勝投手とゴルフを・・・・・。
列伝その8
●尾崎将司
1947年1月24日生
徳島県出身
海南高〜西鉄ライオンズ(1965-1968)

 徳島県立海南高校(現・徳島県立海部高校)時代、1964年の春のセンバツ大会にエースとして出場し、初出場初優勝という快挙を達成。その活躍が認められて西鉄ライオンズに入団した。
入団二年後に打者転向するも、プロゴルファーに転向するために西鉄を退団。1970年にプロテストに合格すると、デビュー翌年の1971年に日本プロで初優勝を飾り、1973年には年間5勝を挙げて初の賞金王を獲得した。ジャンボ尾崎の出現はゴルフブームに再び火をつけ、年間試合数が急増。年間獲得賞金額による賞金シード制も取り入れられ、今あるプロゴルフトーナメントの基盤を築く立役者となった。以降、2009年現在、日本人離れしたドライバーショットを武器に賞金王12回、通算113勝を挙げ、日本ゴルフ界の第一人者として君臨し続けている。
同じく昭和21年生まれの星野仙一阪神タイガースSDや田淵幸一氏をはじめプロ野球界にも親交は深く、かつてはタイガースからは平下晃司や喜田剛ら、プロ野球選手にも自主トレ先として門戸を開いていた。


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