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本間勝交遊録
[10.5月号掲載]
14人目 藤井栄治
我が道を行く『鉄仮面』

 口数が極端に少ない。無愛想に見える。ぶっきらぼうにも感じる。典型的だった選手が藤井栄治氏である。無駄口はたたかない。不言実行タイプ。男は黙って勝負。関大出身で私と同学年。気心の知れた我々と接する時は、普通に喋るし、屈託のない笑顔を見せる。ジョークも結構出てくる。実力は、一年目から右翼の定位置を確保するほど。関西六大学リーグでは首位打者に輝いている。物静かで、目立たない存在。つかみどころのない男に見えて、信念を持った頑固者。肝の座った勝負師である反面、包容力はあり、何も語らなくとも、側に居るだけで気持ちの休まるヤツだった。
 性格的に損をするタイプ。何事においても面倒臭そうにする返事がそのひとつ。横着に見える。生意気にも映る。ランニング。本人は一生懸命走っているのに、力を抜いているように思われる。どう曲解されようと、これが普段のエーちゃん(藤井氏)。変えようはない。いろいろあった中で、一番物議をかもし出したのが、外野フライの片手捕り。現代野球では、極あたり前のことで、逆に奨励されているプレーだが、何にしろ昭和三十七年の話。シングルキャッチなどもっての外。ノックなどで同選手のプレーを見て首脳陣はビックリ。藤本定義監督(故人)はじめ、この年から就任した青田昇コーチ(故人)が注意するも、『僕はこの方が捕り易い』と譲らない。
 当時は、余裕のあるフライは、グラブをはめていない方の手を添えて、両手でキャッチするのが基本。我々も当然、基本に添った捕球をする。首脳陣の指示が正しいものと理解していたが、エーちゃん、なかなか妥協しない。このあたりが、頑固者のエーちゃんならではの、エーちゃんらしいところ。それでも首脳陣から口やかましく指摘されて、やむなく両手捕りの練習をはじめた。本人にしてみれば、納得したわけではない。入団したばかりの新人という立ち場、コーチの意見に従わざるを得なかったのだろう。
 首脳陣を納得させるプレーが起った。はっきりした日時や相手打者は記憶にないが、その年の巨人戦。ライトにイージーなライナーが飛んだ。基本どおり、慎重に両手で捕りにいった。まさか――。目を疑った。打球はグラウンドで跳ねていた。エラーである。コーチは怒るわけにはいかない。わからないものだ。このプレーがきっかけで、首脳陣は片手捕りを認めたというから面白い。1962年の出来事。今や、良しとされている外野フライの片手捕り。『流行の先き取り』と言いたいところだが、流行の尖端を行くようなスマートさはない。どちらかといえば、泥臭い方で流行など縁のない男。外野手としては強肩の持ち主。右前打で二塁走者をよく刺し、右犠飛も阻止するプレーを見せてくれた。
 打順は五番。クリーンアップの一角を担う勝負師。愛用のバットを見てビックリした。グリップが物凄く細い。まるで、ホームランバッターが使用するスタイル。手首が強かった。ヘッドを利かしたシュアーなバッティングには定評があった。持ち味でもあった。私がいまだにはっきり記憶しているのは、昭和三十九年、九月二十六日の試合だ。首位攻防戦。大洋(現横浜)に四ゲーム差をつけられて、直接対決を四試合残していた。ひとつでも落としたら相手の優勝が決まる。その直接対決に三連勝したあとの最後の四戦目。先発したのは私だった。情けないことに、四回に二点を先取される大洋ペースのゲーム展開になった。七回である。逆転のノロシを上げるホームランを放ったのがエーちゃん。ゲームの流れが大きく変った。チームを勝利に導き、逆転優勝を果たした。
 プライベート。遠征先ではよくマージャンをした。四人でやるゲーム。物を賭けている。普通なら大声を出したり、わいわい賑やかな場になるものだが、冒頭で紹介したように無口な男。相手が鎌田さん、前回のゴローちゃん、そして私、本間の四人で卓を囲むものなら口数の少ない人間ばっかり。無駄口はたたかないから静かなもの。だからといってイヤイヤ進めているわけではない。大いに楽しんでいる。当時は相部屋、その部屋の住人が障子戸を開けてビックリ。『何んや、マージャンしてたんかいなあ。声が聞こえへんから、誰もいないと思ったわ』と言われたほど。この世界、結構無口な選手は多い。
 ニックネームの『鉄仮面』も、マイペースで、ひたすら我が道をまい進する性格からついた。こんなことがあった。エーちゃんが西武ライオンズのコーチをしていた時のこと。私が新聞社から出向して、平和台野球(株)という興行会社に勤務していた頃の話。もう三十年近く前のことだ。暴露しても許してくれるだろう。ゲーム誘致の仕事を兼ねて、西武球場(現西武ドーム)へ出張した。久しぶりに東京で会って食事をして、一杯飲んだ。話しは尽きず帰りが午前様になった。あくる日がデーゲーム。ホームチームだから練習の開始時間は早い。私も眠い目をこすりながら同球場に到着。同コーチを捜してみたが、どこにもいない。マネジャーにそっと聞いてみてビックリ『寝過ごして、まだきていない』という。自責の念にさいなまれた。後で謝りに行くと『気にするな』笑っていた。どこまでもマイペース。ある意味、少しも変わらないエーちゃんに安心したことを覚えている。
 同級生が続いたところで、もう一人。私がタイガースへ復帰した時に、大変お世話になった安藤統男元監督に登場してもらおう。
列伝その14
●藤井栄治
1940年2月1日生まれ。大阪府出身。堺市にある府立登美丘高校から関西大学を経て、1962年に阪神タイガース入団。入団時の背番号は「19」。大学時代、首位打者を獲得した実力をルーキーイヤーから発揮して外野のレギュラーに定着、タイガースのリーグ優勝に貢献した。2年目の1963年にはベストナインを受賞すると共にオールスターゲームにも3年連続で出場していた。1974年からは太平洋、阪急と渡り歩き1978年に引退。通算17年間で1650試合出場1344安打、生涯打率.260という数字を残した。引退後は西武、近鉄、阪神で打撃コーチなどを歴任し、その後は野球解説者として球界に携わった。

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