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本間勝交遊録
[11.8月号掲載]
26人目 小林繁 その1
「悲劇のヒーロー」 イメージと戦った人気者の素顔

  華やかである。恰好いい。さっぱりした性格。故・小林繁氏から受けるイメージである。1979年、同氏の運命をガラっと変えたのは、あの〝江川事件〟だった。かたくなに巨人入りを唱える江川氏を、阪神がドラフト一位で指定して勃発。球界に激震が走った問題だが、真面にとばっちりを受けた張本人からこの件に関して、一度もグチなど聞いたことがない。そんな素振りすらみじんも見せない。それどころか、阪神へ移籍した年に、〝22〟勝をマークして最多勝投手に輝いた。凄いのは因縁の巨人から、負け知らずの8勝を挙げて意地を見せた。不言実行。男は黙って勝負する。この数字が小林氏のすべてを物語っていた。
 もう、皆さんよくご存知だろうがトレード通告は、キャンプへの移動日、羽田空港から某ホテルへ呼び戻されて伝えられた。普通なら、いくら激怒してもおさまらない仕打ちでありながら、記者会見で『僕は、請われて行くのです。同情はしないで下さい』と表情ひとつ変えず、サラッとこう言って退けた。反骨精神旺盛な男らしい発言だが、この一言が〝小林人気〟をさらに煽った。悲劇のヒーロー、恰好いいのはセリフだけではない。スリムである。足は長い。顔は小さい。目がパッチリしたイケメンである。そして肌の色は浅黒く、精悍そのもの。モテないはずがない。さすが、たくさんのファンを引き連れてやってきた。巨人ファンまでが付いてきた。
 江川氏の我がまま。ジャイアンツの強引な引き抜きに端を発した騒動。あまりの酷いやり方に巨人離れするファンは多々いた。悲劇のヒーローを見る目は哀れみへと変わり、正義感の強い、真面目人間にうつった。確かに、これも小林氏だが、反面、とんでもないヤンチャ坊主でもあった。現役を引退してからというもの、私の顔を見ると決まって『オッサン・・・。元気そうやなあ』といたずらっぽい顔をして近づいてくる。何を隠そう、本来はこういう男。私、まだまだ若いつもりでいたのに、ヤンチャ坊主にとうとうオッサンにされてしまった。
 こんなエピソードもある。ひと昔前に紹介した、しばやまのりこも小林氏に着いてきたファンの一人。大福餅の差し入れをしてくれていた。その大福が、デップリした、ボリュームたっぷりの餅ときた。団体生活をしていると、なかには目敏いヤツがいるものだ。大福と持参者がそっくり。両方を見比べて、ニヤッとするけしからん選手の中に、チャメッケな小林氏もいた。呼び名が大福のネエちゃんから、年月が経つにつれオバちゃんに。確かにいつまでも若いわけではない。私も納得の命名だ。小林氏と共にやってきた俄かファンで、私に散々面倒をかけながら勝手に消え去ったやからがいる。実に腹立たしい。こんなヤツには『二度と球場に来るな』と言ってやりたい。とはいえ、ここ数年、阪神の観客動員数は十二球団トップ。小林人気の恩恵かも・・・。
 小林人気は移籍した年のキャンプから、早くもファンを動かした。この年の主力選手は手結山観光ホテル(現海辺の果樹園)に宿泊した。丁度高知市から室戸市に通じる国道55号線沿いにあるホテルときている。安芸の市営球場から高知方面への帰り道にあるから大変。ましてや一本道。連日十数キロの渋滞は当たり前だったという。現在でも土曜日、日曜日、祝日の渋滞は有り得るが、当時を知る人達は『こんなものではなかった。とにかく毎日のことだから大変だった。あの時は本当凄かったねえ』と振り返る。これに懲りたのだろう。小林氏、自分がタイガースの選手会長になった年には、球団は手結山に泊まる予定をしていたが、選手会の総意として、安芸の宿舎を常宿にすることを申し出てきた。
 人気者は取材の申し込みも多かったが、思わぬ依頼が舞い込んでくる。小林氏にも当然あった。タイトルはもう忘れたが、〝歌手・小林〟がデビューすることになった。歌は何度か聞いたが、なかなかのもの。ならばと、当時シーズンオフになると必ず開催された、プロ野球選手の歌番組に出場するよう声をかけてみた。『お前なあ、レコードを出した歌手なんだから、出場メンバーに入れとくぞ』と冗談混じりに勧めてみると、その返事がふるっている。『プロですから、アマチュアの番組には出られません』マジな顔で、ジョークにはジョークで返してくるあたりが、いかにも小林氏らしい。
 この男には度々ビックリさせられるが、テレビを見ていて目を疑った。あの〝とんでもない〟とばっちりを受けた相手、江川卓氏(現評論家)とコマーシャルで共演しているではないか。さっぱりした性格。割り切っている小林らしいところだが、イチビッテ、新人に酒をたらふく飲ませ、ベロン、ベロンに酔わせてプロの洗礼を浴びせる一面も持った男。同氏には野球でもビックリさせられた。次回は野球と小林を――。
列伝その26
●小林繁
1952年11月14日生まれ。鳥取県出身。右投げ右打ち。由良育英高校(現鳥取中央育英高校)から全大丸を経て、1971年のドラフト6位で巨人に指名後、翌年オフに入団。4年目の1976年に18勝、胴上げ投手にもなる活躍を見せると、翌年にも18勝を挙げて沢村賞を獲得し、巨人のエースへと成長。しかし1978年オフ、ドラフト会議で「江川事件」が勃発、阪神へとトレードされる。阪神では入団初年度に22勝で最多勝を獲得、5年間で計77勝を挙げるも、1983年に31歳で現役を引退。引退後は解説者、スポーツキャスターなどを経て、近鉄の投手コーチに就任。韓国プロ野球や少年野球でも指導者として活動した。2009年から日本ハムの二軍投手コーチに就任。一軍投手コーチに昇格した2010年1月17日、心筋梗塞による心不全のため、57歳の若さで突然の死を迎えた。

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