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本間勝交遊録
[11.9月号掲載]
26人目 小林繁 その2
「男の美学」を貫いた生涯

 激投型だった。時には帽子を飛ばして力投する。バッターにはどんどん向かっていく。エキサイティングなピッチングがファンの共感を呼んだ。178センチ、68キロのスリムな男。マスコミ等では〝細腕繁盛記〟の活字がよく躍ったものだ。あの体の、どこから、あの活力が涌き出てくるのか。骨っぽいピッチャーだった。反骨精神旺盛な選手だった。記者会見での『同情はいらない』は移籍を余儀なくされた巨人に対しての〝反発〟以外の何ものでもない。決して口には出さなかったが、対巨人戦に見せた闘争心が、故・小林氏のすべてを物語っている。
 移籍した年の巨人戦、九試合に先発した。結果は八勝して負け無し。完投すること五試合、うち完封が三。この年七十四イニングを投げて、自責点は十八。防御率は二・一九と完全に巨人を見返した。男の意地。移籍したシーズンは二十二勝をマーク。最優秀投手賞をはじめ、最多勝利投手賞、ベストナイン、沢村賞を獲得。タイガースでの実働は五年と短かったが、チームのエースとして君臨。常にローテーションの柱として投げ続けてきたが、男の美学とでも言おうか、いい恰好しぃの男とでも言ったらいいのか。引退する年を含めて、八年連続して二桁勝利を挙げ、野球選手としては旬の三十一歳の若さでありながら、余力を残してこの世界を去った。
 よく走っていた。グラウンドに出ると、自分の練習は納得するまで息を抜くことはなかった。これが小林氏のエネルギーなのだ。アンダーハンド。すべてに恰好良かった同氏だが、ピッチングフォームだけは、流れるようなきれいなものではなかった。極端に言えば、まるでロボットであるかのようにギクシャクしていた。それでも、細い体が折れんばかりの力強さがあった。帽子を飛ばしながらの迫力満点のピッチングが持ち味。巨人、阪神で実働十一年。通算で百三十九勝九十五敗、17セーブという実績を持った投手でありながら、信じられない一面を持っていた。ある意味『プロの選手が何故?』と思いたくなるプレーをすることがあった。
 ベンチに居て、自分の目を疑ったのは私だけではなかったはずだ。誰がこんな結果を予測しただろうか。1982年の開幕戦だった。相手は大洋(現横浜)。場所は横浜球場。同点で迎えた九回裏、状況ははっきり覚えていないが、走者が三塁に居たのは確か。もう1点取られたら負けゲーム。ベンチは野手が守り易いように、塁を埋める作戦を指示した。要するに敬遠策である。裏目に出た。何球目だったのか…。小林氏の投球が大暴投。球がバックネットの前まで転々とする間に、サヨナラ負け。信じがたい出来事にベンチも野手も、しばらくその場から動けなかった。こんなシーン、その後二度と見ることはなかった。
 現在も同じ悩みを持った投手はいるが、小林投手、キャッチャーをめがけて全力投球する時は、きちっとコントロールすることが出来るのに、力を抜いて、加減して投げると自分の狙ったところへ投げられない人。だから、軽いキャッチボールは苦手だったし、走者を出した時、一塁へのけん制もままならなかった。この件に関しては『出来ることでカバーするしかない』と多くを語らなかったが、他球団にバレたら大変なこと。目でしっかり抑えたり、投球間隔を変えてスタートを切りにくくしたりの工夫をしていた。
 人騒がせな男ではあったが、この時ばかりは本当に驚いた。1983年の夏場だったと思う。つかつかと歩み寄ってきたかと思うと『本間さん。僕、もう今年でやめますから』突然の出来事だった。どちらかと言うと、冗談をよく口にする小林氏だが、顔は真面目そのもの。まさか…。と思いながらも『何言うとんねん。まだまだいけるやろ』一応、私の意見を話してみたが、同氏の表情はいつもとは違って硬い。これは、私が結論を出せる問題ではない。慌てて当時の安藤監督を呼びに行ったが、同監督の説得にも気持ちが揺らいだりすることはなかった。その後も、小津社長(故人)はじめ、球団は総力を挙げて慰留に努めたが『外角へのコントロールがままならなくなった。自分の思うように体が動いてくれなくなった』と言い残してユニホームを脱いだ。性格からしてこの男、一度口にしたことを撤回することはない。
 負けん気の強い男だった。信念を持った選手だった。早々とユニホームを脱いだのは小林流の男の美学だろうが、巨人に対しての反骨心と言おうか、わだかまりは最後まで消えることはなかった。同氏がOBになってから、何試合かの阪神─巨人のOB戦を行ってきたが、一度も巨人のユニホームを着ることはなかった。常に縦縞のユニホームに袖を通して、さっそうとマウンドに上がっていた。
 骨っぽい男。反骨精神旺盛な男。鼻っ柱の強い男。等々、表面に出ていた行動を中心に記載してきたが、本来の小林繁氏、普段はおくびにも出さなかったが、実に几帳面な性格だった。まわりが乱雑な中、同氏のロッカーは、いつも整然としていた。背番号19。小林氏が退団した翌年から〝19〟番を背負ったのは中西現ピッチングコーチだった。次回に登場してもらう。
列伝その26
●小林繁
1952年11月14日生まれ。鳥取県出身。右投げ右打ち。由良育英高校(現鳥取中央育英高校)から全大丸を経て、1971年のドラフト6位で巨人に指名後、翌年オフに入団。4年目の1976年に18勝、胴上げ投手にもなる活躍を見せると、翌年にも18勝を挙げて沢村賞を獲得し、巨人のエースへと成長。しかし1978年オフ、ドラフト会議で「江川事件」が勃発、阪神へとトレードされる。阪神では入団初年度に22勝で最多勝を獲得、5年間で計77勝を挙げるも、1983年に31歳で現役を引退。引退後は解説者、スポーツキャスターなどを経て、近鉄の投手コーチに就任。韓国プロ野球や少年野球でも指導者として活動した。2009年から日本ハムの二軍投手コーチに就任。一軍投手コーチに昇格した2010年1月17日、心筋梗塞による心不全のため、57歳の若さで突然の死を迎えた。

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