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本間勝交遊録
[12.12月号掲載]
40人目 野村克也 その1
虎を変えた名将 気の毒な退団劇の顛末

 阪神タイガースの体質を変えた人。2003年、2005年のリーグ優勝の基礎を築いた人。三顧の礼を尽くして迎えた名将。野村克也元監督。指揮を執った三年間、いずれも不本意な最下位に甘んじたが、選手に考えることの重要性を浸透させた。野球への探究心を持たせ、常勝阪神の道筋をつけた人。私は確信してやまないが、夫人の脱税事件で、長年プロ野球界を闊歩してきた人から、野球が取り上げられてしまう。同じ野球界を糧に生活してきた者としては、あまりに気の毒な退団劇にショックを受けた。すでに十数年の年月が流れた今なお、あの日の、憔悴し切ったノムさんの表情が忘れられない。
 2001年十二月五日、長〜い一日だった。いつもより、少々早目に球団事務所へ。東京の経過を見つめながらの待機だ。待つ身の辛さ。時間はなかなか進んでくれない。その間、いろいろな状況を思い浮かべながら考えてみた。現役監督の夫人がおかした事件だ。球界だけにとどまらず、社会的にも反響は半端ではない。この一件、いずれの結果が出ても記者会見は必要不可欠。うやむやにはできない。問題は、いつ、どこで、どういう形で会見するかだ。ましてや、報道陣の数もかなり多い。簡単に家の前で済ませるわけにはいかない。理想は――。まずそこから考えた。阪神タイガースは関西のチームだ。やはりケジメをつけるためには、球団事務所での会見がベターである。基本線は決まった。
 球団の方針としては、在宅起訴なら続投。逮捕なら辞任だった。途中で情報収集してみるが、我々にとってはマイナス材料ばかり。次年度の采配を大いに期待していたが、不可能な事態になってきた。それでも一縷の望みを持ちながら、事実究明の推移を見守った。運命の時がきた。午後三時、夫人が逮捕された。一瞬、上京が頭に浮かんだが、すでに前日から監督の専属広報だった蔦村(現球団副本部長)が現地で待機している。蔦村の出番だ。報道陣でごったがえす野村邸の前を突き進んで、やっと家の中へ。
 『もう辞めるんだから、大阪まで行かんでもいいやろう』もう覚悟していたのだろう。野村監督はこう言った。その時の心境がそのまま出た言葉に違いない。気持ちはわかるが、ここで問題をいい加減に片付けず、しっかりケジメをつけておくことが後のノムさんのためにもなる。事態にパニクっている本人には、そこまで考える余裕などない。ならば、まわりで支えている人達が導いてやることだ。蔦村はその点をよく心得ている。なかなか首を縦に振らない同氏を懸命に説得した。『そちらに行くのが、何時になってもいいですか』蔦村からの電話だった。
 私はこの電話で大阪入りの脈ありを確信した。『何時になってもかまわん。とにかく連れてこれるよう頑張ってくれ』祈った。待つしかなかったが、しばらくすると『いまから、関空経由で球団事務所に行きますから』の連絡がはいった。蔦村必死の説得に、ノムさんが首を縦に振ったのは午後の八時を過ぎていた。逮捕されてから五時間。厳しい状況の中での説得には本当、感謝した。正直、ホッとした。これで理想的に事が運びだした。段取りとしては取材制限からはじめた。まずはトラ番記者に、カメラマンを優先した。テレビ局は、在阪の局だけのカメラ一台ずつに絞った。取材制限が出来た。我々が考えていた理想の記者会見になるはずだ。
 野村監督が到着した時の球団事務所の入口は、報道陣でごったがえしていた。もうモミくちゃ。やっとの思いで社長室にたどり着いた。『ご迷惑をおかけしました。辞めさせていただきます』疲れ切った表情が、この日の出来事を物語っている。大変だったと思うが、イヤイヤながらでも球団事務所まで足を運んでくれた。球界ではいろいろよからぬ噂のあった人だが、こういう状況の中にもかかわらず、東京からわざわざ大阪まできて、辞任会見をきっちりする監督はそうはいない。この行動を目の当たりにして、意外にも"筋″を通す人だと見直した。記者会見は、もう日付変更線を過ぎていた。正式には六日の午前十二時半。マスコミ各社には迷惑をかけてしまったが、私は『これでよかった』と思っている。
 ノムさん。幸いにも野球を取り上げられることはなかった。ノンプロではあったが、ユニホームを着ることができた。後には、楽天で采配をふるった。やはり、この人と野球を切り離すことはできない。どうしても、一回では書き尽くせなかった。次回は"野球人・野村″にスポットを当ててみる。
列伝その40
●野村克也
1935年6月29日、京都府網野町(現京丹後市)生まれ。峰山高校を卒業後の1954年、南海ホークスにテスト入団。3年目のシーズンから正捕手の座をつかむと、1957年には本塁打王を獲得。以後、首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回(1965年は三冠王)などを獲得した打棒と、「ささやき戦術」に代表される捕手としての駆け引き、類まれなる分析力で、南海の黄金時代を支えた。1970年、球界初のプレーイングマネージャーに就任。ロッテ、西武に移籍後の1980年に現役を引退した。1990年からはヤクルトスワローズの監督として4度のリーグ優勝、3度の日本一に導き、1999年、阪神タイガースの監督に就任。指揮を執った3年間はいずれも最下位と結果は残せなかった。その後は社会人・シダックスの監督として武田勝(日本ハム)・森福允彦(ソフトバンク)など多くのプロ選手を輩出、2006年から楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任し、2009年にはチーム創設以来初のCSに進出させた。

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