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本間勝交遊録
[13.6月号掲載]
45人目 江藤愼一
セ・パを渡り歩いたバットマン 〝闘志〟の裏の優しい笑顔

 怒り肩―。ガッシリした体格―。眉間にシワを寄せた鋭い目―。走る姿は、まるで重戦車―。迫力満点―。睨まれたら身体が竦みそうな人―。故・江藤愼一さん。見るからに闘争心を前面に出したファイター。まさしく九州男児。熊本出身(熊本商)の肥後もっこすそのままの人。日本プロ野球界初のセ・パ両リーグを股にかけて、首位打者に輝いた選手。入団した中日で1964年、65年と二年連続。パ・リーグではロッテへ移籍した二年目に・337をマークしてバットマンレースのトップに立った凄いヤツだが、見掛けによらずやさしい人。その笑顔は安らぎさえ感じた。
 現役時代はお互い敵方の選手。球場で顔を合わせても、本当、ありきたりの挨拶をする程度で、それほど親しく話をするまでには至らなかった。当然のことではあるが。江藤さんと腹を割って対話できるようになったのは、1975年、太平洋クラブライオンズ(現西武)の、プレーイングマネジャーに就任してからだった。監督と新聞記者の間柄。初めのうちは仕事上の会話。いわゆる取材としての対話に過ぎなかったが、元々、チームは違っても同じセ・リーグでプレーしていた選手同士。顔見知りだっただけに、お互い打ち解けるまでに、それほど時間はかからなかった。
 当時のパ・リーグは、関西をホームグラウンドにしていた球団が、3チーム存在していた。阪急であり、南海であり、近鉄だった。当然のことながら来阪する機会は多かった。私が勤務していた西日本新聞社(本社・福岡)は、在阪スポーツ紙が阪神中心の紙面作りをするのと同じで、地域的にライオンズは紙面作りのメインチーム。事前取材は、少しでもいい原稿を書くための、財産(ネタ)を確保しておくのに必要不可欠なことであって、そのうち、あつかましくも太平洋が関西地区へ遠征してきた時は、必ず常宿にしていたホテルへ出向くようになった。江藤監督、時には疲れて気の進まない日もあっただろうが、フロントへ下りてきたときの表情はいつも笑顔。このへんに同氏のやさしさを感じたが、昼食を御馳走になったり、コーヒーをともにしたりして、じっくり、ジョークを交えた、たわいも無い話をさせていただいた。本当にありがたかった。
 ある日、こんな話が出てきたことあった。『本間よ・・・。あんたも両リーグで野球をしてきたと思うが、どうや・・・。野球をやるなら、やっぱりセ・リーグやと思わんか・・・。どう思う・・・?』と聞かれたことははっきり覚えている。当時世間では〝人気のセ〟〝実力のパ〟と言われていた頃だが、江藤さんが言わんとしたのは〝注目度〟を重視してのことだろう。その頃私は、大阪支社に勤務していて、甲子園(阪神)、西宮球場(阪神)、大阪球場(南海)、日生球場(近鉄)の四球場に満遍なく取材に行っていたが、やはり、ファンがたくさん詰めかけ、球場が大いに盛り上がっていたのは甲子園球場だった。野球選手冥利に尽きることといえば、ファンに注目を浴びることであり、感動を与えることだ。一応ユニホームを着ていた身分。江藤さんの気持ち、非常によくわかった。現在に至ってはセ・パ両リーグの観客動員数にさほど差はなくなっている。
 こうした雑談の中でちょく、ちょく話題として出てきたのが、真弓明信氏(前阪神監督)の存在だった。『今、うちにマユミという選手がいるだろう。あの選手はよくなるぞ。結構パンチ力はあるし、足も速い。負けん気は強いし、ハートはしっかりしている。よう見てごらん』と教えてくれた。注目してみた。なるほど三拍子揃っている。確かに楽しみな選手だ。しばらくして阪神に移籍してきた。その活躍を振り返ってみると、監督にまで昇格した人。選手としての実力どころか、人格まで見抜いていた江藤さんの眼力はたいしたもの。
 監督として采配をふるったのは、たった一年だけだったが、1970年代のライオンズがAクラス入りしたのは、江藤さんが指揮を執った一度だけ。弱小チームを三位に導いた手腕、評価に値する成績だったといえる。実働は18年。2084試合に出場。7156打数、2057安打で打率は・287。そして367ホーマーを放って、1189打点の好成績を挙げたスタープレーヤー。放ったヒット数を見て皆さんお分かりだと思うが、名球界入りしている実績の持ち主。
 ユニホームを脱いでからは、野球学校を設立したこともあった。何年か前には参院選に出馬したことも。晩年は少々疎遠になってしまったが、弟の省三さん(慶大監督)が評論家時代、私の高校(中京商・現中京大中京)の後輩ということもあって、球場で時々話をしたこともあった。それより、私にとっては、毎日のように宿舎に押しかけてくる自分を、うるさいヤツと歓迎してくれた、見かけとは全く違ったやさしい人だった。本当に感謝している。さて次回、タイガース戻って、私も結婚騒動に巻き込まれた中田良弘氏を―。
列伝その45
●江藤愼一
1937年10月16日生まれ。熊本県出身。熊本商業高校から日鉄二瀬を経て、1959年に中日ドラゴンズに入団。社会人時代は捕手。入団後に一塁手、後に外野手に転向した。闘志を前面に出した全力プレーを身上に、入団初年度からレギュラーとして活躍し、安打、本塁打を量産。1964年から2年連続で首位打者を獲得し、ロッテオリオンズに移籍2年目の1971年にも.337の打率を残し、当時は初めてとなる両リーグでの首位打者獲得を達成した。その後、大洋ホエールズ、太平洋クラブライオンズ(兼任監督)と渡り歩き、1976年のロッテを最後に現役を引退。2008年に肝臓がんにより逝去。2010年に、史上初の両リーグで首位打者と後年の野球振興への功績により野球殿堂入り。

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