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本間勝交遊録
現在、阪神タイガースOB会副会長を務める本間勝氏。1958年にタイガースに入団し、10年にわたる選手生活の後、新聞記者に転身。その後タイガースのフロント入りし、球団広報部長などを歴任、約半世紀にわたってタイガースを見続けてきた。そんな本間氏が出会い、触れ合ってきた人々を中心に、その中から生じた話題や感じ取った事柄、脳裏に焼き付けられた出来事などを綴っていく。
本間勝
1939年5月1日生まれ。愛知県出身。中京商(現中京大中京高)から1958年に阪神タイガースに入団。背番号14。投手として活躍し1960年には13勝を挙げる。1966年、西鉄ライオンズに移籍。翌年に引退。引退後は14年間の新聞記者生活を経て、阪神タイガースの営業、広報担当を歴任。2002年に広報部長を退任。

[14.9月号掲載]
59人目 福間 納
グラウンド外でも才能豊か
タイガースで開花した救援人生

 当時、欧陽菲菲が歌う“雨の御堂筋”が流行っていた。『こぬか、雨降る御堂筋……』歌い始めると、プロの審査員もびっくり。まあ、うまい。玄人はだしの歌唱力に、歌の先生たちも思わずニガ笑い。この笑いは、あきらかに、感心して、つい出た笑顔。その主は福間納氏。現在も続いているかどうかは定かではないが、あの頃、東京では十二球団対抗歌合戦があり、関西でも在阪球団で競い合う歌合戦があった。各チーム歌自慢の選手が参加するイベント。タイガースも真弓選手、平田選手らを引き連れて挑戦したが、大好評だったのが冒頭の歌。福間氏、野球に限らずオフも登板過多で大変だった。
 福間氏を思い出すと、あのリズミカルな、ノリノリのステージが頭に浮かぶ。何分にも器用な人。ゴルフも野球関係のコンペでは、ハンデキャップはシングル。それも、野球では左投げ、左打ちでありながら、右利きのクラブを持ってのラウンド。まったく違和感がなく、おまけに中途半端なハンデではないから感心する。野球でも本職のピッチャーではないポジションで先発出場する。OBクラブ関西支部の幹事をしていた頃、同クラブが中心になって開催していた、マスターズリーグでの出来事。スコアボードを見てみると、なんと“一番、センター・福間”で出場。右に左に軽々と、平気で走りまくっていた。実に器用な元気者だ。
 お酒も結構いける。あまり遠征先のホテルで“ジィーッ”としているタイプではない。どちらかといえばネオン街をフラフラと歩いていた人だが、野球選手の福間といえば、イメージとしては阪神タイガース、でも、プロとしてスタートしたチームはロッテだ。1978年のドラフト1位。指名された年の年齢が27歳。体にしても身長175センチ、体重60キロ。決して恵まれていたわけではない。それだけに迷いはあったが『野球をする以上は、一度はプロで-』の願望と、ドラフト前に八球団が指名の挨拶に来たことで、プロ入りに踏み切ったようだ。年齢的に見て、ロッテとしては即戦力で獲得したはずだが、一年目は十九試合。二年目に至っては八試合に登板したのみ。戦力にはなれなかった。
 福間氏が生き返ったのは、阪神へのトレードだった。ロッテでは野手転向の話も出ていたとか……。そういう意味では気分転換にもってこいの移籍。よく走った。ピッチング練習での集中力は、端で見ている我々にも伝わってきた。コントロールを生命とするタイプのピッチャー。生活がかかっている。己をわきまえるなら、リリースポイントでの集中力は必要不可欠。努力は嘘をつかないという。中継ぎ投手として開花したが、そういえば1982年、小山(正明)さんがピッチングコーチに就任した時、福間氏のピッチングを見ながら『これで、左の中継ぎは大丈夫や』の太鼓判を押していたことを思い出した。人との出合いはいろいろあるが、コントロールにおいては“精密機械”とまでいわれた小山コーチとの出合いは好運だった。
 直接アドバイスを受けるシーンはよく目にした。福間氏の場合、自分の側に、自分と同じ投手生命のコントロールを武器に活躍してきた人が居るのを意識するだけで、自然にコントロールがついたはず。それも、相手は三百勝投手。いいところを見せようとアピールするだけでも力はつく。その答えは、初のタイトルとなって返ってきた。リリーフ専門の投手が規定投球回数をクリアするケースは滅多にないが、当時は、チームのクローザーでも二イニング、三イニングを投げていた時代。投球回数は規定ギリギリの130イニング3分の2だったが、登板数はリーグ最多の69試合。6勝4敗6セーブの成績で、タイトルを獲得した防御率は2.62。今や、球界の投手起用は先発、リリーフが分業制になっている。今後、救援投手が規定投球回数をクリアすることはないだろう。プロ野球界でも貴重な存在だ。
 防御率のタイトルを獲った。翌年は当時セ・リーグ記録だった77試合に登板した。タイガース移籍後、八年間で398試合マウンドに上った中で、唯一、本当の福間氏を見せつけたゲームがあった。日本一に輝いた日本シリーズ第五戦だった。四回、一死満塁のピンチを招いた。代打の登場だ。西武が起用した選手は、前日の九回、福間氏が決勝ホーマーを浴びた西岡(良洋)である。さあ、どうする。通常ならピッチャー交代コールをされる可能性が高いが、吉田監督の打った手は続投。同投手の男気を買った采配に『よっしゃあ』意気に感じ、渾身の力を振り絞って投げた球で遊ゴロの併殺に打ち取った。
 『この状況で打たれたら、男じゃあないでしょう』マウンドから下りてきた福間氏、顔は笑っていたが、ベンチに居た私には引きつって見えた。息遣いは荒く興奮気味。意気に感じて投げた。己のすべてを出し切った。この時ばかりは、本来のジョーク好きはどこへやら。本気の福間がそこに居た。さて、次回は……。賑やかだった加藤博一氏で。
列伝その59
福間 納(ふくま おさむ)
1951年7月13日、島根県大田市生まれ。島根県立大田高校では3年次に春の甲子園に出場。卒業後は松下電器に進み、都市対抗野球大会などで活躍。1970年ドラフトでは阪急ブレーブスに7位指名されるも拒否、その後1978年のドラフトでロッテから1位指名を受け、プロ入りを果たした。1981年のシーズン途中にトレードでタイガースに移籍。1983年には最優秀防御率のタイトルを獲得、翌1984年には77試合に登板するなど主に中継ぎとして活躍。1990年限りで現役を引退した。引退後は野球解説、評論家活動のほか、タイガースで投手コーチ補佐、オリックスで投手チーフコーチなどを歴任。プロ野球マスターズリーグでも活躍した。

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