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本間勝交遊録
[10.6月号掲載]
15人目 安藤統男
『ファン重視』の姿勢が生んだ監督辞任事件

 安藤統男元監督(現評論家)。凡プレーが続くものなら、ベンチの中は大変。大声で怒鳴る。火鉢に限らず、手当たり次第に物を蹴っ飛ばす。関東出身。口調はベランメイ調。おまけにガラガラ声。迫力は満点。性格は温厚そうに見えて、実は短気。反面、聞く耳を持った理解ある人。勝敗の全責任をかぶる立場。いつ解任されるかわからない身分。悔いを残さず、己の野球を貫くためには我がままであってもいいはずだが、我々の意見でもよく聞いてくれた。私、同氏が監督に就任した年から、広報担当としてタイガースのフロント入りをした。野球をよく勉強していた人。もう一度ユニホームを着てほしかった。
 ファームの監督時代から、若手を厳しく鍛えていた。一軍でも怒りの矛先は主力に向けられた。火鉢を思い切り蹴って、足を痛めた(後で大笑い)こともあった。時には腸が煮えくり返るようなゲーム内容に激怒。無言のままベンチからロッカーへ直行する場合があった。普段はプレスルームで記者会見をしてから引き揚げるわけだが、そんな素振りは全く見せずに、さっさとロッカーへ。突然の行動に監督のインタビューを待ち望んでいた虎番記者は大慌て。締め切り時間は迫ってくる。監督の談話がない。原稿を書けない。広報の私にクレームをつけてくるが、こういう時は、監督の頭が冷えるのを待つしかない。私にも記者の経験はある。報道陣のイライラする気持ちはよくわかる。ころを見計らって説得に行くと、『マーチャン(私のこと)スマンなあ。もうすぐ行くわ』マスコミの怒りの矛先が、私に向いているのはわかっている。気を遣わせまいと笑顔でこたえてくれた。
 堪忍袋の緒が切れたのは、1984年10月5日だった。この年の最終戦の試合後だ。ロッカールーム。いつもの顔とちょっと違う。目が血走っている。完全に切れてしまった。『こんな野球やっとれるかい!マーチャン。オレ、辞めるわあ』かなり強い口調でこう言った。
 この年、阪神は掛布。中日・宇野がホームラン王争いをしていた。37本で並んでいる。残り試合は直接対決の二試合だけ。勝負するか……。歩かせるか……。10月3日、ナゴヤ球場で行われた第一ラウンド。二人とも五打席すべてが敬遠の四球。ファンや連盟から『ファン無視』のお達しがあった。中一日置いた甲子園球場。最終戦の日がきた。さあ、どうする。堪り兼ねた同監督。当時の中日・山内一弘監督(故人)に電話を入れた。『お互い、勝負しましょうよ』相手は大先輩とはいえ、タイガースで、同じユニホームを着て、一緒にプレーしていた人。いい返事を期待したが、『いや、ウチは歩かせるぞ』だった。
 最終戦の当日。甲子園球場での話題はおのずと掛布VS宇野で持ちっきり。安藤監督の腹は決まっていた。『こうなったら、掛布を守ってやるしかない』である。一軍の将としては当然だろう。注目の対決は、またも四球合戦となった。スタンドからは、“ブーイング”が起こる。終わってみれば両選手、二試合で十打席連続の四球。チームは完敗。安藤監督、世論を真面に受け止めて辞任する覚悟を決めていた。とんでもない事態に発展してしまった。実をいうと同監督の続投は、九月の中旬に正式発表していた。我々の立場から判断したら、こんな事でユニホームを脱ぐ必要はないと思うが、監督という立場からは『一番大事なファンを裏切った』自分が許せなかったのだろう。
 先ほどの『辞任事件』はこうして起った。当時の阪神タイガース。二、三年周期で監督の首をすげ替えていた。長期的な展望を持ったチーム作りをしていない。中途半端な流れを繰り返していた。悪しき慣習を何とか解消してほしい。今、安藤監督が辞めてしまっては、元の木阿弥。一年でも長く指揮を執ってもらいたいが、こんな大問題を私が決めるわけにはいかない。急いで当時の小津正次郎社長(故人)、岡崎義人代表(故人)と連絡をとった。なかなかの頑固者。一旦言い出したらテコでも動かないタイプ。ロッカールームの監督室。話し合いはかなりの時間を要した。
 途中から私も呼ばれた。二、三年でいいチームは作れない。それに、ここで辞めたらタイガースの悪しき慣習は解消できないし、何にも残らない。『絶対に辞めたらだめですよ』自分では力説したつもりだが、首を縦に振ってくれない。社長、代表、広報の私、三人で懸命に説得にあたったが、監督の気持ちは変わらなかった。それでも、一応この日は去就の結論は持ち越されたが、意思は堅い。予断は許されない。我々には、心境の変化を待つしかない。
 今、球場で顔を合わせても、この当時の話をすることはなくなった。OB会、安藤会長、本間副会長で運営してきたが、もう、あの頃の激しい気性は影を潜めている。七十一歳。最近のテレビ、ラジオの解説を聞いていても、口調は穏やか。ベンチで怒鳴ったり、蹴っ飛ばしていた人とは思えない。年齢的にも、“好好爺”といったところか……。アレッー。ここまで書いてきたが、どうも終わりそうにない。聞く耳を持ったところなど、全く触れていない。結末まで掲載できずに済みません。続きは、次回に……。
列伝その15
●安藤統男
1939年4月8日生まれ。茨城県出身。土浦一高から慶応義塾大を経て、1962年に阪神タイガースに入団し、内外野を守れるユーティリティープレイヤーとして活躍した。1970年にはリーグ2位の打率.294をマークし、二塁手としてベストナインを獲得。同年のオールスターゲームにも出場した。1973年の現役引退後はタイガースの守備走塁コーチ、ファーム監督などを歴任し、1982年から一軍監督に就任。1984年まで3年間指揮を執り、3位、4位、4位の成績を残した。87年から3年間はヤクルトのヘッドコーチとして手腕を振るい、現在は野球解説者としてテレビ・ラジオでその声を聞くことができる。また、2002年から2009年まではタイガースのOB会長を務めた。

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