トップに
戻る
本間勝交遊録
現在、阪神タイガースOB会副会長を務める本間勝氏。1958年にタイガースに入団し、10年にわたる選手生活の後、新聞記者に転身。その後タイガースのフロント入りし、球団広報部長などを歴任、約半世紀にわたってタイガースを見続けてきた。そんな本間氏が出会い、触れ合ってきた人々を中心に、その中から生じた話題や感じ取った事柄、脳裏に焼き付けられた出来事などを綴っていく。
本間勝
1939年5月1日生まれ。愛知県出身。中京商(現中京大中京高)から1958年に阪神タイガースに入団。背番号14。投手として活躍し1960年には13勝を挙げる。1966年、西鉄ライオンズに移籍。翌年に引退。引退後は14年間の新聞記者生活を経て、阪神タイガースの営業、広報担当を歴任。2002年に広報部長を退任。

[15.2月号掲載]
64人目 星野仙一
虎を変身させた“気遣い”の闘将

  私の中の“星野仙一像”といえば、平成十四年、阪神タイガースの監督に就任して、縦縞のユニホームを着た時であり、翌十五年、チームをリーグ優勝に導いた年の勇姿である。確かに厳しい人だった。激しい人でもあったが、実に笑顔のよく似合う人で、相手の気持ちを和ませる一面も持ち合わせていた。昨年十一月、久しぶりに再会した。OB総会の会場だ。『どうもお疲れさんでした。いろいろあって大変でしたねえ』とねぎらいの声をかけると、わざわざ椅子から立ち上がって、あの和やかな笑顔で握手を求めてきてくれた。
 返ってきた言葉が、また、実に気の利いたジョーク交じりのひと言だった。ご無沙汰しているにもかかわらず、より一層親近感を抱かせてくれた。『いやあ……。本間さん。久しぶりです。生きていましたかあ。どうも、どうも、本当ご無沙汰しまして……。お元気そうで何よりです。』心安い間柄で、元気にしている人にしかかけられない言葉だ。人一倍気遣いのできる人。これがふだんの星野氏である。ましてや、昨シーズンの同氏、大病を患い一時はユニホームを脱いで療養していただけに、我々みたいな年寄りのことが気になるのだろう。
 そういえば、私が定年退職したあくる年の優勝時だった。こんなことがあった。『本間さん……。何でもう一年いなかったんですか……』何でもない言葉かもしれないが、前の年、一緒に戦ってきた私にとっては、実にうれしいひと言で、監督らしい気遣いが直に伝わってきた。星野氏の気遣いを一部では、ファンやマスコミ受けするためのパフォーマンスだと聞いたことはあるが、一年間、ベッタリ付き合ってきて、そんな裏表のある人ではないのがわかった。それならばと、私、ついには、その年の優勝旅行にオーストラリアまで、夫婦で、自費でゲスト参加した。そして同監督に『とうとう、ここまで来てしまいましたよ』と声をかけると大笑い。『やっぱり来ましたかあ』と気い良く写真撮影などに協力してくれたし、大いに歓迎してくれた。
入団交渉も、来るべき人が就任したというか、実にスムーズだった。私自身は、その年まで中日の監督をしていた、ドラゴンズ生え抜きの大物だけに一抹の不安を感じていたが、お陰様で取越し苦労に終わってくれた。土地柄(岡山・倉敷商出身)元々が阪神ファンだったからか、逆に不安どころかタイガースに対しての気遣いの方に驚いた。まず初めの注文が、OBの故・藤村富美男さん、故・村山実さんのお墓参り。田淵幸一、故・島野育夫両コーチを引き連れてお参りすると、今度は故・田宮謙次郎(当時は健在)氏、安藤統男さんという前、現のOB会長に挨拶している。そして、オフのOB会総会には、全コーチを強制的に出席させる徹底した心遣いには感心した。
 監督としての期待にも応えた。最下位が続いていた弱小球団を、わずか二年でリーグ優勝に導いた。その手腕はどこに。持って生まれた闘争心だろう。怒りっぽいところはあった。喧嘩っ早い面もあった。気難しい一面もあり“怖い人”が同氏のイメージだが、そのすべてを闘争心にして勝負に挑んだ結果だ。選手にとってハッパをかけるタイミングが良かったし、的を射ていた。いまだ記憶に残っている言葉がこれだ。
『お前らなあ……。折角他チームと互角に戦えるようになったのに、前の弱いチームに戻っていいんか。今日みたいな覇気のないプレーをしているから平凡なミスが出るんや。こんなことでは勝てるはずがない。いいか。優勝しようと思ったら“優勝したい”というような願望みたいな気持ちではなく、“優勝するんだ”という強い気持ちで戦わんと勝てへん。プレッシャーもなあ。今頃から感じていてどうするんや。いずれなあ。小便をチビリそうになるゲームは必ずくる。もっと、もっと強い気持ちで勝負しないと、優勝なんてできへん』
 これが星野だ。旺盛な闘争心がチームに浸透してのリーグ優勝。あの時もそうだった。阪神の監督として初采配をふるった対巨人との開幕戦(平成十四年三月三十日)場所は東京ドーム。エース・井川の好投で試合が後半にはいった時のこと。星野監督が突然気分を悪くしてロッカーへ。不整脈だという。『この球場では前にもやったことがある』らしいが、舞台裏は応急処置で大わらわ。監督の青白い顔を見て、私の方がオロオロしてしまったが、八回には気丈にベンチへ。開幕戦を完投勝利で飾った井川を、何事もなかったようにグラウンドで抱き締めた。心配だ。私は監督にそっと近寄り『インタビュー、断りましょうか』と伝えると『大丈夫です。できますから』平然とインタビューを受けている。『敵に弱みを見せたら負け』やはり闘将だ。
 そして―。頭の回転の早さは然る事ながら、金本獲得に動き出した時の行動力。故・久万オーナーとヒザ詰め談判した時の説得力。自ら築いた人脈を駆使。眠っていた虎を、牙を剥いて戦う猛虎に変身させてくれた名将。正直、もう二、三年は指揮を執ってほしかった人だ。さて、このコーナーも次回が最終回。長い間ご愛読いただきましてありがとうございました。ラストイニングは若手OBの矢野、湯舟、赤星らで締め括ってみよう。
列伝その64
星野仙一(ほしの せんいち)
1947年1月22日、岡山県生まれ。倉敷商高から明治大を経て、1968年度のドラフト1位で中日に入団。1年目から先発・リリーフ問わずに登板し、1974年には15勝9敗10セーブの成績を挙げて沢村賞を獲得。特に巨人戦では無類の強さを見せ、「巨人キラー」の異名をとった。14年間の現役生活で500試合登板、146勝を挙げて1982年に現役引退。引退後は1987年〜1991年、1996年〜2001年の計11年間にわたって中日の監督として指揮を執り、1988年、1999年にリーグ優勝。そして2001年オフ、当時の久万俊二郎オーナーの招へいを受け、タイガースの監督に就任した。就任2年目の2003年に18年ぶりのリーグ優勝を果たしたが、体調不良を理由に同年限りで退任、以後はシニアディレクター(SD)としてタイガースを支えた。2008年には北京五輪で日本代表チームを率い、2011年からは楽天の監督に就任。2013年にリーグ優勝、CS制覇、日本一を達成したが、昨年は体調不良でシーズン途中での休養もあり、オフに退任。2015年からは楽天のシニアアドバイザーを務める。

月刊タイガース今月号

月刊タイガース2月号

2月1日発売 
定価410円(税込)

月刊タイガース携帯サイト

ケータイでバーコードを読み取ろう!/月刊タイガース携帯サイト